時空越えも半分まで来て思ったのは、「アンブロシアが食べたい」でした。
世界の壁を越えるにはとても体力が必要なのです。決して僕の食い意地だけが理由ではありません。
でもその時の僕は何より、「マーメイモン様の作ったアンブロシアが食べたいな」と思いました。
戦いには弱い種族になりましたので、ネプトゥーンモン様が「ずいぶん控えめな姿と能力になったものだ」と正直に言ってしまいまして。ぺちぺちと反撃のビンタをされていました。
進化したのだから呼び名も変えよう、という話になったのですが、「新しい種族名は天の奥方の昔に似ているから嫌」と頑固に主張されて、それまで通り「マーメイモン」とお呼びすることになりました。
戦えなくなったマーメイモン様が新しく始めた趣味が、アンブロシア作りでした。天上の小麦、
僕が焼きたてをねだりに行くと、いつも「みんなには内緒ですよ」と一枚食べさせてくれました。
今では食料も貴重になり、アンブロシアは気軽に食べられるものではなくなってしまいました。口惜しいことです。
あの何気ないやり取りが、今思えばどれだけ幸せだったか。
光の渦を抜けると、そこは僕の世界でした。
見慣れた、いや、見慣れてしまった残骸の世界。
まともに残っている大地などなく、海や山の断片が中空をさまよっているばかり。
僕が拓也さん達を乗せてこの世界を出てから、こっちでは何日経ったのでしょう。海や大地と共に、空も太陽も姿を消してしまいました。もう、一日を計ることもできないのです。
世界が崩れ去っていった日々も、どれほど前のことだったか、もう分かりません。遠い過去のような気もします。
でも、マーメイモン様の船へと走ったあの日だけは、まるで昨日のことのように覚えています。
海も空も陸も、安全な場所などどこにもありませんでした。突然村や町を構成する全てがデジコードと化し、砕け、二、三時間のうちに粒子になって消えるのです。逃げのびられるデジモンはわずかでした。飛べる者でさえ、空の崩落に巻き込まれて塵になっていきました。
世界が崩れ始めてから滅びるまでの半年間、僕はほとんど休むことなく各地を駆け回っていました。いつもの僕からは想像できないほど、がむしゃらに。
どんな場所へも行ける僕は、住民救出のための貴重な戦力だったのです。どの村に異常が出た、と聞くたびに走りました。それでも間に合わず、村の残骸を前に呆然としたのが何度あったことか。せっかく助け出せても、避難した先が崩壊し、そこで全滅してしまったこともありました。誰にも止められない悲惨な日々でした。
ネプトゥーンモン様もまた、十二神族の皆と協力して惨事を食い止めようと必死に動いていました。
神々の膨大なデータが世界崩壊の原因である。そう言われてもなお、人々は神に助けを求めていました。オリンポス十二神族の存在はあまりに大きく、人々には他に頼れる相手などいなかったのです。
僕が執務室に行った時も、ネプトゥーンモン様は一人机に向かい、被害状況を地図にまとめていました。僕が入ってきたのに気づいて、手を止めました。
「どうだった」
「生きていたのはルカモン二体とポヨモン一体。デジタマは十七個回収しました」
「ご苦労。海の侵食もひどくなる一方か」
ネプトゥーンモン様は疲れた声で言って、僕の行った町に×印をつけました。
「今日はもう休め。いつまた呼び出すか分からない」
「ネプトゥーンモン様こそ、少しはお休みにならないと。ここ数日まともに寝ていないでしょう」
僕が心配すると、ネプトゥーンモン様は首を横に振りました。
「何かしていないと落ち着かない。私が眠っている間にまた被害が出るのではないか。一つでも打っておける手はないのかと考えてしまう。それに」
そこで言葉を切りましたが、僕には続く言葉を容易に想像できました。あれより他にネプトゥーンモン様が恐れているものなどありません。
「ネプトゥーンモン様!」
だから駆け込んできたハンギョモンの言葉に、僕はそっと目を閉じました。
「北の海が……マーメイモン様の海域がデジコード化を始めました」
ああ、恐れていた日が来てしまったのだな、と。
北の海は既に一部が消え失せ、ハチの巣のような有様になっていました。僕達が泳ぐ間にも、デジコード化した海が消えるのが見えました。消え失せた空間に海水がなだれ込み、あちこちで渦巻いていました。
その隙間を縫って、ネプトゥーンモン様は一心不乱に泳ぎました。行く手を渦に阻まれ回り道をさせられるたびに、ネプトゥーンモン様がいらだっているのが分かりました。
普段の二倍近い時間をかけて、やっとマーメイモン様の船にたどり着きました。
上質の木材で作られた帆船ラグーン号。かつての戦乱の折には、戦艦としても活躍しました。船そのものが一つの町と呼べるほど大きく、「動く城」の異名を持っていました。
しかし数年前から、船は穏やかな海に錨を下ろし、海底に横たわっていました。
僕達が甲板に降り立つと、舳先の方から年老いたズドモンが歩み寄ってきました。イッカクモンの頃から船乗りをしている長老格です。
「ネプトゥーンモン様、いらしてくだすったのですか」
ズドモンの言葉は静かで、でも微かに安心感がにじんでいました。
「船に人気がないようだが」
「海に異常が出てすぐ、みんな避難させました。残ってんのは姫様とわしだけです」
確かに、いつもデジモンでにぎわっていた甲板はがらんとしていました。見捨てられ、朽ちるのを待つかのように。
「マーメイモン殿は……自分の部屋だな」
ネプトゥーンモン様の確認に、ズドモンも当然のように頷きました。
「姫様は動かせる状態じゃありませんから……。さあ、こっちに」
ズドモンか扉を開けて、僕達を船室へと案内してくれました。
小さなベッドに、マーメイモン様は埋もれるように横たわっていました。
もちろん、進化してずいぶん小柄になられたのもあったのですが。僕達が前にあった時よりも、更にやせてしまったようでした。
ネプトゥーンモン様が来たのを見て、マーメイモン様は一瞬嬉しそうに、それから悲しそうに表情を変えました。
「会いにいらしている場合では、ありませんのに」
途切れ途切れの声を聞きとろうと、ネプトゥーンモン様はベッドの横に座りました。僕は一歩下がった場所で、黙って見守っていました。
数年前、マーメイモン様は病に倒れました。自らの癒しの力や部下の看病でも、進行を遅らせることしかできませんでした。あの時にはもう絶対安静で、動かせる体ではなくなっていました。当然、避難も不可能でした。
マーメイモン様が、小さな手をネプトゥーンモン様の手に添えました。
「ネプトゥーンモン様。マーメイモンのことはどうかお気になさらないで。どちらにせよ、もう長くない体だったのですから。それよりも、民を一人でもお救いになってください」
「……マーメイモン殿を置いてはいけない。マーメイモン殿がこのまま消えていくのなら、最期まで共にいてやりたい」
ネプトゥーンモン様の真剣な言葉に、マーメイモン様は目をうるませました。そして、首を小さく横に振りました。
「なりません。あなたには民を守る義務があります。ご自分の感情に流されて、助かるはずの民を見捨てるのですか」
「私は誰よりも、マーメイモン殿を見捨てたくないのだ」
ネプトゥーンモン様は間髪入れずに返しました。
僕は知っていました。マーメイモン様の容体が悪化していると知ったネプトゥーンモン様が、しばらくラグーン号で生活しようと考えていたことを。マーメイモン様がデジタマに還るその日まで船にいるつもりだと、城の者に告げていたことを。世界崩壊が始まらなければ、とうに実現していたでしょう。
ネプトゥーンモン様がここに残るつもりであることも、予想がついていました。何しろ長い付き合いですから。
今日がお二人との最後の別れになるかもしれない。僕はそんな心構えさえしていました。
なのに、マーメイモン様は悲しく微笑むばかりでした。
「そこまで想ってくださるなんて、本当に優しいお方。その優しさ、マーメイモン一人が受け止めてはもったいないですわ」
ネプトゥーンモン様は深いため息をつきました。
「頑固だな」
「よく分かっているはずです。こういう時の私は譲らないと。何百年も過ごしてきたのですから」
ネプトゥーンモン様はとうとうおし黙ってしまいました。
マーメイモン様がその顔を見て、泡を一つ、そっと吹きました。青いハート形のそれは、ネプトゥーンモン様の胸元へと漂い、鎧の隙間から体内へしみこみました。
「お守りです。これなら誰かに食べさせてしまうこともないでしょう?」
マーメイモン様が小さく笑って、僕が無理やりに笑って、ネプトゥーンモン様は全く笑いませんでした。
その代わりかすれた声で、もう一度名前を呼びました。
「マーメイモン殿」
「もう行ってください」
マーメイモン様がきっぱりと言って、目を閉じました。
「長くここにいても、別れが辛くなるばかりです」
「ネプトゥーンモン様……いきましょう」
僕が促すと、ネプトゥーンモン様はのろのろと重い腰を上げました。マーメイモン様は目を閉じたまま、身動きしませんでした。
僕も後を追ってマーメイモン様に背を向けます。
「ユニモン、ネプトゥーンモン様を頼みます」
「……はい」
小さな声に、僕もささやき声で答えました、
僕がドアを開けると、ネプトゥーンモン様は静かに部屋を出ました。
部屋を出たところで、ネプトゥーンモン様が立ち止まりました。
「ドアを閉めてくれ。開いていると思うと、振り返ってしまいそうだ」
僕は取っ手をくわえて、ドアを閉めました。一瞬マーメイモン様に目を向けましたが、入口からではベッドに埋もれてしまって、ほとんど見えませんでした。
甲板に戻ると、ズドモンが景色を眺めて待っていました。
「あなたは、ここに残るんですか」
僕が聞くと、ズドモンは当然のように頷きました。
「姫様のいるこの船が、わしの故郷です」
「そうか。……マーメイモンのそばにいてやってくれ」
ネプトゥーンモン様の言葉に、ズドモンは深々と頷きました。
北の海、ラグーン号崩壊。生存者ゼロ。
その報告が入ったのは、城に戻って二日後でした。
壊れた世界の向こうに、唯一残った城が見えてきました。僕は速度を落として、辺りを漂う岩に隠れながら進みます。重症だったアポロモンを見れば、ユピテルモンが本性を現しつつあるのは明らかです。戻ってきたのに気づかれたら、丸焦げにされてしまうでしょう。
まずはディアナモンに会って、世界崩壊の真相を伝えること。そしてディアナモンが決断したならば、ユピテルモンが住むこの城から住民を逃がすこと。
そして、それが終わったら。
城に入る前、僕は危険を冒して身を乗り出しました。謁見の間がある城の奥を見るために。
謁見の間は半分が吹き飛んでいました。雷と海の力がぶつかった跡です。散々見慣れた僕が言うのですから間違いありません。
アポロモンの言葉では一方的に攻撃を受けたようでしたが、反撃するだけの力は残っていたのです。その後どうなったのかは分かりませんが……。
でも僕は、ネプトゥーンモン様は生きていると信じています。根拠なんてありません。僕がそう信じたいから信じているんです。
マーメイモン様の思いに応えるためにも、僕は必ずネプトゥーンモン様を探し出すんです。
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8/1おめでとうございます! 今日は(チケット取れなかったのもあって)自宅でネット巡りの星流です。
そして、こんなめでたい日に鬱全開の小説を叩き込んだのは、はい、私です(汗)
番外編三部作の終わりはこれを書こうってずっと決めてたんですもの……8/1以外にこれをUPするタイミングが見つからなかったんですもの……。
お正月特別編でマーメイモンを初めて出した時から、この別れは決めていました。お正月編を書く前まではマーメイモンは生存している予定だったんですが。書いてる最中に現在のネプトゥーンモンと昔のネプトゥーンモンを比べて、世界崩壊だけでない悲しさが生まれているような気がして。
ああ、マーメイモンが死んだんだな、と直感しました。マーメイモンが生きているのなら、ネプトゥーンモンはもっと明るい表情をしているはずだって。
ですので、本編でもユニモンはマーメイモンのことを常に過去形で話していました。
果たしてユニモンはディアナモンに会い、説得できるのか? ネプトゥーンモンの生死は?
その顛末は、本編で明らかになります。
ではっ!