実りに繋がる失敗を。 | 秋月せいらオフィシャルブログ「〜徒然なるままに〜」Powered by Ameba
寒中見舞い申し上げます。
皆様随分ご無沙汰してしまいました。気づけば節分を過ぎそろそろ新しい年の運気がメインになる時期になりました。
私は統計学上では本年が大変不運な年らしく昨年から怯え暮らしておりますが、新年早々洗面台を割ってしまい、あゝ運気のせいだ…と思いたい願望に囚われる正月明けでした。
瓶を落としたのですが瓶は無傷で洗面ボウルは真っ二つ…HAHAHA…



さて本日は”実りに繋がる失敗を”そんなお題でお話を致します。
私が今回運気の”せい”で洗面台を割ってしまったと思い込みたい心理は、自分は悪くないという深層心理からくるものですね。これと同じように、誰かのせい、仕事のせい、運気のせいと常に自分ではないもののせいにしたがる方というのは残念ながら一定数います。そういった人にそれって自分が改めるべきことじゃない?と投げかけると、「だって…」、「でも…」と返って来ることは非常に多いです。

勿論自分の過失でないことも一定数あるのですが、それは除いてお話しますと、自分の過失を認めない人には成長がありません。自分は悪くないという心理の上でその過ちを省みなければ、次回同じようなことが起きたときに過去の反省などないのでまた同じことの繰り返し――という悪循環になってしまうのです。

天が難を与えるということはそこに学びがあるから拾いなさいという意図が大方あるものです。同じことばかり繰り返しているという人はその学びを拾えていませんよと、同じことを繰り返さなくてはならないのです。

例えば同じような人に困らされてしまうという人はそういった類の人との距離感や対応を掴めず賢い立ち回りが出来ていなかったり、どこの職場に行っても上手くいかないというのは自らの立ち回りに問題があるのかもしれません。

素直に自分の過失や至らない点を認めるというのはエネルギーを必要とすることですが、間違ったことは改めて次に生かすという当たり前のことを当たり前に処理することが大切です。

何かのせいにばかりする人生はその場しのぎとしては傷つくこともなく嘆くこともなく他の所に怒りや八つ当たり的な感情を向けておけばいいですが、積み重ねる経験値にはならないので何度も意味を持たない失敗にしてしまうのです。

自分の行いや言動を客観的に見渡し続けるというのはなかなか難儀なことですが、苦しみを糧に出来ないことには次なるステップには向かうことが出来ないのだということを心に留めて頂ければ幸いです。

折角天の力が身を持って知りなさいというメッセージを発信してくれているのです。早々にキャッチして次に活かして歩みを進めたいものですね。

十分に十分に自戒の意味を込めて今日の一筆でした。
まだまだ寒さ厳しい毎日、くれぐれもお身体ご自愛下さいね。