OSHObot@oshobot
瞑想するその人がいないときこそ、瞑想がある。
2018年11月27日 07:54
瞑想(ディヤーナ)と
真我探求(ヴィチャーラ)
これ大切な事かと思います。
OSHOではありませんがマハルシは次のように説いています。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが。。
質問者:瞑想と探求にはどのような違いがあるのでしょうか?
マハルシ:それらはどちらも同じ結果に達する。探求こそが直接的方法であるが、探求の道に適さない人は瞑想を修練すべきである。瞑想の中で真理の探究者は、自己を忘れて「私はブラフマンである」、「私はシヴァである」と瞑想し、この方法でブラフマンあるいはシヴァをとらえる。これが最終的には、存在としてのブラフマンあるいはシヴァという覚醒として残る。そのとき、彼はこれが純粋な存在、真我であることを悟るのである。
真我を探求する人は直接に彼をとらえる。そして「私は誰か?」と自分自身にたずねることによって、真我は明らかにされるのである。
自分自身を「存在-意識-至福」として輝く至高の実在だと精神的に「想像」することが瞑想である。(ここには二元性が残っている。)非実在の迷妄の種子が途絶えるように、(自我に同一化した心を離れて)心を真我の内にしっかりととどめることが真我探求である。
何であれ、精神的イメージを心に描きながら真我に瞑想する者は、そのイメージのなかに現れたものにしか到達できない。そのような精神的イメージなしに沈黙にとどまる心安らかな者は、形無き真我、崇高な限定されない解脱の状態に到達する。
つまり瞑想は間接的に覚醒にいたり、真我探求は直接的に至る。
瞑想では自己と実在の二元性が残るが最終的にはその自己(自我)を離れて二元性を離れることで真理に行きつくと。
瞑想している人(自我)がいない時が真の瞑想であるという事ですね。
私は凡人なので完全な概念が分かりません。
ただ真我探求をしている時と瞑想している時の感覚の違いは何となく分かります。
真実はシンプルだと言います。
難しくしているのは私たち自身なのかもしれませんね。