「御述懐一帖」―孝明天皇の祈りとご決意 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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「御述懐一帖」とは、日米修好通商条約の締結から4年後の文久2年(1862)5月11日、孝明天皇が示された勅書である。

 

前文は、明治時代後期に編修された『孝明天皇紀』に収録されているが、天皇が幕府への勅使派遣の可否を諮問された際、宮中で主だった公家に示されただけで、書き写し等は許されなかったという。

 

公表を前提とされていなかったため黒船来航以後に起きた出来事に対するご所感がかなり率直に記されている。

 

 

筆者の星原大輔氏は、孝明天皇が幕末政治の中で重んぜられたであろう点を取り上げたいとして、その一つに「公武一和」を挙げている。

 

以下、本文より抜粋致します。

 

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もう一つは、「公武一和」である。これにより派生した出来事が、和宮の降嫁である。和宮は孝明天皇の異母妹で、生誕される約5カ月前に父・仁孝天皇が崩御されたため、兄である天皇は和宮を大切に遇せられ、有栖川宮熾仁親王との婚約を調われた。ところが、幕府が、「外夷払除」の実現には、「天下一心戮力(力を合わせること)」が不可欠であり、そこで「公武一和」の姿を目に見える形にしたいとして、和宮と第14代将軍・徳川家茂の婚儀を奏請してきたのである。天皇はすぐに斥けられたが、幕府の奏請は再三再四に及び、遂に「祖宗の天下のことには代へ難し」と、断腸の思いで勅許された。和宮も当初は強く拒絶されていたが、天皇の深い宸憂を知って承諾された。この頃、和宮は左の御歌を詠まれたという。

 

惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも

 

幕府が孝明天皇に、10年以内に「外夷払除」を果たし、諸大名と「武備充実」を図ると誓約したため、熾仁親王との婚約は破棄され、和宮は家茂の正室となられたのであった。天皇は幕府の外交姿勢を強く叱責されたが幕府を廃すのではなく、あくまで挙国一致で国難に臨もうとされていた。

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『祖國と靑年』7月号

 

 

しかし、幕府は「10年以内」に外夷払除を果たし、武備充実を図るという約束を守らなかった。それどころか程なく、プロイセンとの条約締結、そしてスイスとベルギーとの条約締結の意向を奏聞する有様だった。

 

このままでは、「国家の傾覆」は免れないと憂懼された孝明天皇は、幕府への勅使派遣を考えられ、公家らに諮詢した際に「御述懐一帖」を示されたのである。

 

末筆には「親征せん」(天皇御自ら先頭に立って事に当たられるという強いご決意を示された。

 

天皇のこのお言葉が、状況を大きく動かすこととなったのである。