皇居勤労奉仕は祖国再建への誓いから始まった | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

2月23日、天皇陛下はお誕生日のご会見で、皇室の在り方について次のようにお述べになりました。

 

「皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことが大切であると思います」

「国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております」

 

 

国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室の信頼関係が築かれていく ―― 戦後においてその原点となったのが、昭和二十年十二月に行われた第一回の皇居勤労奉仕でした。

 

 

ということで、昭和二十年十二月、宮城県で結成された「みくに奉仕団」が上京しました。戦災で荒れ果てた皇居のがれき撤去、雑草撤去に取り組んでいるその時、昭和天皇がお出ましになられたエピソードを紹介します。

 

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昭和天皇のお出まし

 宮殿焼け跡の基礎部分だったのだろうか、昭和天皇は、団員たちより少し高い位置にお上りになって、鈴木団長を御前にお召しになった。

 

「どうも、ご苦労」

 

その言葉から始まった天皇のご下問は、「汽車が大変混雑するというが、どのようにして上京してきたのか」、「栗原とはどのようなところか」、稲作の状況はどうか」と続いた。

 

団長として御前に立つこととなった鈴木の眼には、終戦から半年を経ても、天皇は「大へんおやつれ」であるように見えた。

また、「どのような動機でやってきたのか」との下問に鈴木は、当初宮内省に願い出た際と同じく、「外苑の草刈り」奉仕のつもりで状況したことを奉答する。栗原の農民は、全国の草刈り大会でも優勝するような腕前。それを活かしたいと、奉仕を願い出た経緯がある。

 

すると天皇は、「あの大会のことは、新聞で見て知っておる」と微笑みを浮かべられた。栗原の青年たちはそのお言葉に、激戦化の小さな新聞報道にも陛下は目を向けておられたことを知った。

 

天皇のご下問は約二十分にも及んだろうか。自らの奉答の一つ一つに、「ありがとう」「ご苦労」とお応えになる天皇に鈴木は恐縮しつつ、団長としての役目を終えた。

最後に天皇は、「何とぞ国家再建のために、たゆまず精をだして努力して貰いたい」とのお言葉を団員にお伝えになった。約二十分のお出ましを終えた天皇は、侍従らと共に御座所へとお戻りとなる。

 

その時だった、

「君が代をうたいましょう。」

 

団員の誰かがそう呟いた。占領下では、あまり公に歌えるものではなかった。だが、天皇の御姿を前にして、その不安は誰にもなかった。どこからともなく歌いだされた。

 

「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」

 

すると、瓦礫の上を歩まれる天皇のその歩みはひたと止まった。

 

「真黒な手拭を顔に押しあてた面伏しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて、唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら云い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった」(木下道雄『宮中見聞録』)

 

(中略)

 

昭和天皇、香淳皇后をお見送りした団員たちに、幹部の一人はこう語りかけた。

 

「諸君の『君が代』こそは、国歌なき、国旗なき日本で歌われた祖国再建の祈りを込めた最初の『君が代』ではなかろうか」。

 

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続きはぜひ3月号誌面を読んでください(^^♪