『祖国と青年』10月号で最も心に残ったのが、
地方から中央へ―国政を動かした元号法制化運動
でした。
2年前の御代替りの時、「令和」ブームが巻き起こった記憶は新しく、令和という言葉の意味や『万葉集』、元号の歴史などに注目が集まったが、昭和後期における元号存続の危機について語られることは殆どなかったように思います。
「天皇陛下の践祚によって、元号が替わる」
このことは、私たち国民にとって当たり前のように考えられていますが、敗戦後の日本国憲法制定に伴い、昭和50年代において「元号廃止」の危機感が漂い始めていた中に、地方議会決議の推進によって国政を動かし、その2年半後ついに「元号法」が制定されるに至ったことは、昭和史における一大ドラマだと感じました。
さて、日本青年協議会は結成当初より「憲法改正」を志してきたわけですが、では、なぜこの時に元号法制化運動へと動き出すことになったのでしょうか。
そのきっかけとなったのは、葦津珍彦氏の「維新か革命か」と題する講演であったと説明されています。
※葦津珍彦氏とは、戦後、神社本庁の設立や執筆活動に尽力し、国体・神社護持運動の最前線にあって、その理論的支柱となる役割を果たした方。
葦津氏は、占領憲法を声高に批判する民族派が現実から遊離し、一方で左派は確実に国体破壊的な憲法解釈による現状変更を進めている状況を憂え、次のように述べました。
「曖昧愚劣な憲法は、結局においては改めねばならないという大きな目標を、国民の前に絶えず示していくという啓蒙運動は続けるがいい。しかし現行憲法下でも、国体精神に基づく現実整理を一歩一歩と前進し、強化して、その力を十分に強め固めて行かねばならない」
「そして最後の一線において、国民の大多数が共感し、支持し得るような正義を断行し得るような時にこそ、現行憲法のぎりぎりの一線を突破することができる」
(「維新か革命か」より引用)
「葦津氏は、観念的な改憲論を戒め、現憲法下でも残された国体条項を最大限に生かし、国民の内にある『国体精神』『国家の精神的基礎』を一歩一歩固めていかなければならない。その先に憲法改正への道も拓かれるという道筋を示されたのである」
(本記事より引用)
このような葦津先生のご指摘から、日本青年協議会は現行憲法に残された「天皇条項」を積極的に解釈し、そこから国家の精神的基礎を固めむとして、当時喫緊の課題であった元号法制化の国民運動に立ち上がったという経緯であるわけです。
このあとの本文では、具体的にどのようにしてその国民運動を展開したかが詳細に記されています。
まさに昭和史における歴史的一大ドラマ✨
この国民運動によって元号法が成立したからこそ、「平成から令和へ」という御代替りの国民的感動があったのだと、深く感動しました。
ぜひぜひご覧ください。