「祖国と青年」3月号、今月の主張 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」3月号の巻頭言は、「明治維新の基を築かれた光格天皇」と題して、大葉勢清英さんが書かれていますので、以下、ご紹介します。

 


 幕府に窮民救済を指示

 

 今年は、明治維新百五十年に当たる。


 一般的な観方として、江戸時代は、朝廷よりも幕府が政治の実権を握り、幕府は禁中並びに公家諸法度を発して朝廷に様々な制約を課し、天皇は宮中より外に強い影響力は持たなかった。しかし、幕末にアメリカの黒船が来航し、武力を背景に通商条約を求めた際、これに唯々諾々と従おうとする幕府に対して孝明天皇は攘夷の意思を示され、勅許を下されなかった。ところが、幕府は天皇の勅許を無視して条約を結び、これに激高した志士の中から孝明天皇を結集軸とする尊皇攘夷運動が起り、ついに幕府からの大政奉還がなされ、王政復古の明治維新に至る――というのが人々が抱くイメージであろう。つまり、「孝明天皇」を起点に天皇の求心力が高まり、明治維新が開かれたという見方である。


 だが、孝明天皇のご登場によっていきなり幕府に対する朝廷の発言力、権威が高まったわけではない。その前提として、孝明天皇のご祖父に当たられる光格天皇の御代に、朝廷の存在感・権威が高められ、明治維新の基が築かれていたのである。


 因みに、光格天皇は、歴代天皇の中で最後にご譲位されたお方でもある。報道によれば、天皇陛下は、ご譲位のご意向を内々に示された平成二十二年頃、宮内庁の幹部に光格天皇のご譲位について調べるよう依頼されたという。


 以下、明治維新の基を築かれた光格天皇のご事績の一端について紹介したい。


 光格天皇は安永九年(一七八〇)、九歳で即位された。先代の後桃園天皇は、二十二歳の若さで崩御され、直系の皇子がいなかったため、傍系の閑院宮家の第六皇子がはからずも突然即位されることとなった。


 周囲には傍系から来た幼い天皇を軽んじる風潮があったが、光格天皇は学問に熱心に励み、皇室祭祀を厳修された。江戸時代には、幕府の制限によって皇室の儀式や神事が蔑ろにされていたが、朝儀・神事の復古・再興に努め、天皇の権威と神聖の復権を目指された。


 天明七年(一七八七)、天明の大飢饉が起り、米価が高騰、多くの餓死者が出た。人々は、京都所司代や京都町奉行所に嘆願したが、幕府は効果的な救済策を出さず、大阪や江戸などで打ち壊しが起った。
幕府に落胆した人々は、天皇に救済を求め、御所の周りを回るようになった。これは「御所御千度参り」と称され、最初は五十人ほどだったものが、全国からも参拝者が増え、最高では一日七万人にも達した。
後桜町上皇は、三万個のりんごを配らせ、御所の周囲の溝には冷たい湧き水を流し、人々が憩えるようにした。有栖川家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。約五百の露天商も出て賑いを見せた。


 光格天皇はすぐさま京都所司代に使者を派遣し、幕府に窮民救済を講じるよう、申し入れさせた。朝廷が幕府に指示を出されるのは異例のことであったが、幕府は応じ、千石の救い米の追加を京都所司代に命じた。


 この年の秋、光格天皇は、古式を復活させた形での大嘗祭を行われ、次のようにお詠みになった。

 

 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思ふばかりぞ

 

 この御製は世情に流布し、光格天皇の評判は高まった。「後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった」(伊勢雅臣『日本人として知っておきたい皇室の祈り』)のである。

 

 鎮護国家の祈りを捧げられる

 

 光格天皇の御代には、さらに幕府と朝廷の関係に大きな影響を与える事件が起きた。文化三、四年(一八〇六、七)、ロシアの軍艦が、北方の樺太、択捉を攻撃した。その二年前、レザノフが求めた通商を幕府が拒否したことに対する報復だった。


 ロシアとの本格的な戦争が始まることも想定される中、幕府は東北の諸大名に蝦夷地出兵を命じ、また、朝廷の権威を借りて諸大名をまとめる必要を覚えたのであろうか、幕府は朝廷にこの事件に関する対外情勢を報告した。江戸幕府が外交について朝廷に報告するのはこれが初めてのことであった。


 この時の事例が根拠となり、後の孝明天皇の御代には、外国と条約を結ぶ際は勅許が要るとの考えが確立していたのだ。


 光格天皇はこの頃、長らく中絶していた石清水八幡宮と賀茂神社の臨時祭の再興に努め、幕府との交渉を進められた。石清水八幡宮と加茂神社は伊勢の神宮につぐ崇敬を朝廷から受けていたお宮で、石清水八幡宮の臨時祭は、国家の危機に際して天皇と国家の安泰を祈ることから始まった神事であり、皇城鎮護の神を祀る加茂神社の臨時祭も鎮護国家の重要な神事だった。


 そして、文化十年(一八一三)、石清水臨時祭が約三百八十年ぶりに再興され、翌年には加茂神社臨時祭も約三百四十年ぶりに再興されるに至った。


 幕末になると、孝明天皇が攘夷祈願のため、将軍家茂を同道して、石清水八幡宮・賀茂神社に行幸された。国家の危機に際し、鎮護国家の祈りを捧げられるという天皇像は、光格天皇の御代に人々に強く印象づけられたのだ。


 紙数の都合上、詳述はできないが、光格天皇の御代の朝廷の存在感・権威の高まりの中で、「天下の政は朝廷の御委任によって代々の将軍が行うものであって、国土・国民は将軍の私有物ではない」との「大政委任論」が広がり、幕末の大政奉還へと発展していった。


 光格天皇のご存在あればこそ、孝明天皇の御代の尊皇攘夷運動もあったことを思うとき、天皇のご存在あっての明治維新史の深さが思われるのである。