サン・フランシスコ号の物語 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 去る四月七日、天皇皇后両陛下はスペイン国王王妃両陛下と静岡市をご訪問になり、久能山東照宮に所蔵されている両国ゆかりの西洋時計をご覧になりました。


 時計は約四百年前、スペイン船が千葉沖で座礁した際に、地元の村民が乗組員を救助し、徳川家康公が船を貸し与えるなどした返礼として、当時のスペイン国王から家康公に贈られたもので、当日は落合偉洲宮司がご説明にあたりました。


 「祖国と青年」6月号では、天皇皇后両陛下、スペイン国王王妃両陛下にご説明された際の様子、また、家康公をはじめ当時の人々が座礁したスペイン船を救助し、スペイン国王から時計を贈られた歴史の物語などについて、落合宮司にお話を聞きました。

 

 以下、落合宮司のインタビューから、江戸時代の人々がスペインの人々を助けた物語をご紹介します。

 

 

 ――天皇皇后両陛下、スペイン国王王妃両陛下がご覧になった家康公の西洋時計が、なぜ「日本とスペインの友好の歴史のシンボル」なのか、その歴史的背景についてお聞かせ下さい。


 落合 慶長十四年(一六〇九)九月三十日、フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船サン・フランシスコ号が、暴風雨に遭い、千葉県の御宿に漂着しました。


 ロドリゴ・デ・ビベロをはじめとする乗船員三百七十三名のうち、五十六人が溺死、三百十七人は村民に救助されました。地元の海女さんたちが海に飛び込み、溺れて仮死状態になっている船員たちを、体温で温めて蘇生させたという伝承が残っています。また、大多喜城主・本多忠朝も、遭難者を大多喜城内や岩井田大宮社に集めて手厚い保護を施しました。


 ロドリゴ・デ・ビベロはその後、江戸に出て二代将軍・秀忠公に会い、さらに駿府に来て家康公に面会しています。家康公は、外交顧問の三浦按針(ウイリアム・アダムス)に命じて西洋型帆船二隻を伊豆半島の伊東で造らせていましたが、そのうちの一隻を用意して、九十人ぐらいは長崎からフィリピンに帰ったようですが、それ以外の人たちを田中勝助等二十一名の日本人に命じて、メキシコのアカプルコまで送り届けさせました。


 ――その返礼として、スペイン国王から家康公に西洋時計が贈られたわけですね。


 落合 慶長十六年、ビベロ一行の海難救助に対するお礼として、スペイン国王とメキシコを統治するスペイン副王ルイス・デ・ベラスコは、司令官セバスティアン・ビスカイノを日本に派遣しました。


 彼らが持参した家康公へのお土産の中に、国王の持ち物であった時計と、国王、王妃、皇太子の肖像画があったわけです。時計はもちろんですが、自分たちの肖像画を贈ったというところに、スペイン国王の気持ちが表れていると思います。


 家康公も肖像画には大変関心を持たれたようで、「国王の肌の色は自然の色か、着色しているのか」と家臣に尋ねたという記録が残っています。


 時計は家康公の手許に約五年間あって、家康公が亡くなって久能山に埋葬されると、二代将軍・秀忠公は「家康公が大事にされていたものだから」と久能山東照宮に納められました。それから三百年間、久能山の神庫でずっと眠っていたわけです。


 ――当時の時計は最先端技術の塊ですから、よほどのことがない限り贈ることはなかったと言われます。つまり、それほどスペイン国王の感謝は大きなものであったということですね。


 落合 スペインの方に話を伺いますと「自分が最も大切にしている物を贈ることが最高の感謝のしるしだ」とよく言われます。


 時計というのは、羅針盤などと共に大航海時代を支えた技術です。地球が一日で回転する三百六十五度のうちの二十四分の一、十五度が動く時間を一時間として計ることが正確にできるようになって、大航海時代を支えていくわけです。


 しかも、当時の時計は手作りで、一年半に一個ぐらいしかできないものです。それを贈られたのは、やはり大変なことだったと思います。