昭和30年2月の選挙の意味 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 参院選を1カ月後に控えた今日、自民党は憲法改正について語らない一方で、民進党や共産党は「アヘノミクスは争点隠しで、安倍自民党の本音は憲法改正だ。3分の2を絶対に阻止する」と息巻いています。


 民共は相当な危機感をもって「3分の2」阻止を訴えているのに対し、自民党を始めとする保守の側に「絶対に3分の2を獲る」という気迫が欠けているように思えてなりません。


 「祖国と青年」6月号では、鈴木編集長が参院選で憲法改正を訴える意味について、岸信介首相の時代の憲法改正の動きを振り返りながら書かれていますので、ポイントの箇所を何回かに分けてご紹介します。


 今日は、昭和30年2月の選挙の意味についてです。



 憲法改正を掲げて戦った昭和三十年の選挙


 憲法改正に関連して戦後政治史が語られる時、必ず言われるのが、「自由党と民主党が保守合同で自由民主党を結党し、憲法改正を目指したが、選挙で三分の二にわずかに届かなかった」「安倍総理の祖父・岸信介の悲願が憲法改正であった」ということである。逆に言えば、七十年にわたる戦後政治史において、憲法改正が正面から語られたことは、自民党結党時、あるいは岸信介の時代(両者は同じ意味だが)以外に一度もない、ということである。では、なぜ憲法改正という国の根幹に関わる問題が戦後政治において一切語られず、この時にのみ語られたのであろうか。


 まず、「憲法改正を争点にして、わずかに三分の二に届かなかった」というのは、昭和三十年二月二十七日の総選挙(衆院選)である。選挙の結果、定数四六七の議席の内訳は次のようになった。


 民主一八五・自由一一二・左社八九・右社六七・
 労農四・共産二・諸派二・無所属六


 民主党と自由党の議席を足すと二九七で、三分の二の三一二議席に一五足りない。一方、左派社会党と右派社会党の議席を足すと一五六で、ちょうど三分の一の議席となる。ここにおいて、自民党が三分の二弱、社会党が三分の一強を占めるという、いわゆる「五五年体制」が確立することになる。ちなみに、自民党の結党はこの年の十一月、社会党が再統一したのは同じく十月である。


 この昭和三十年二月の総選挙がどのような意味を持っていたかは、その前の選挙結果(昭和二十八年四月)と比較すれば明瞭となる。


 自由一九九・改進七六・分自三五・左社七二・
 右社六六・労農五・共産一・諸派一・無所属二


 実は、昭和三十年二月の選挙は、いわゆる「自民党と社会党の対決」ではなかった。自由党(吉田茂)が大きく票を減らし、改進党(重光葵)・分派自由党(鳩山一郎)・自由党の一部が合流した民主党(鳩山一郎)が大勝したという、「民主党と自由党の対決」だったのである。そしてその後、民主党が主導する形で自民党が結党されたわけだが、これら一連の「保守合同」を画策した中心人物が、当時民主党幹事長だった岸信介である。