フィリピンでの奉迎活動 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」3月号では、両陛下のフィリピンご訪問を特集していますが、その中の、慰霊奉迎団として現地に赴いた清川信彦さんと椛島明実さんの座談から、奉迎活動の様子をピックアップしてみたいと思います。







 ――まず、両陛下の奉迎活動について振り返っていただきます。最大のポイントは、二十九日の「比島戦没者の碑」だったと思いますが、当日は、両陛下が到着される直前まで雨が降っていましたね。


 椛島 そうなんです。現地ではレインコートが必要なくらい雨が降っていました。


 私は、パラオや沖縄でも、両陛下が慰霊地に来られる前に「お清めの雨」が降るという体験をしていましたので、今回もそういうことなのだろうと思って、小旗を配っていました。それで、フィリピン人のガイドさんに、「これは英霊の感動の涙なんですよ」「両陛下が来られるときには雨がやみますよ」と伝えましたが、彼女は半信半疑でした。


 ――でも、本当に雨がやんだ。


 椛島 両陛下が到着される十分前くらいから雨がやみそうになって、ガイドさんも「本当だね!」と驚いていました。両陛下が来られる直前に、横幕を出して小旗の降り方などの練習をしたのですが、そのときにはもう強い日差しが差してきました。


 慰霊碑は日本庭園の中にあるのですが、両陛下が庭園に入られて十分くらい経った頃でしょうか、ちょうどご供花される頃だと思うのですが、サーッと風が吹いて木々が穏やかに揺れました。それを見て、私は英霊も喜んでおられるのだと思い、胸が詰まりました。


 ――両陛下のご拝礼の様子は、NHK等でも生中継されていましたが、両陛下がご到着された後、一陣の風が吹いて、碑の左右に掲げられている両国の国旗が勢いよくはためいていたのがとても印象的でした。椛島さんたちが門の所で風を感じたのが、ちょうどそのときだったのでしょうね。


 椛島 そうだと思います。


 ――現地の人々は、両陛下をどのようにお迎えしていましたか。


 清川 これは二十八日、サンディエゴ庭園近くの沿道での奉迎の話ですが、そこに、フィリピン大学の日本語学科の学生が八名駆けつけてくれました。


 私たちは二十五日に、フィリピン大学とアテネオ大学の日本語学科の学生との交流の場を持ったのですが、そこで、私たちが両陛下奉迎のためにフィリピンに来たこと、両陛下は日本の戦歿者だけでなく、フィリピンの戦歿者にも祈りを捧げられ、無名戦士の墓にご供花をされることを伝えると、「私たちも両陛下を一緒にお迎えしたい」と言ってくれました。


 そして、彼らは日本語学科の教授に直談判して、講義を休講にしてもらったのです。それで、二十八日には私たちと一緒に「天皇皇后両陛下、ありがとうございます」と声を上げ、小旗を振って奉迎してくれました。


 椛島 私たちが横幕を用意していることは伝えていなかったのですが、シリカさんという女子学生が、「天皇皇后両陛下フィリピンへようこそ!」と漢字とひらがなで書いた幕を、当日持って来てくれました。


 ――フィリピンの学生さんたちは、両陛下が来られることは知っていたのですか。


 清川 今回交流した十二名は誰も知りませんでした。


 ――では、両陛下のご訪問はフィリピンではあまり知られていなかったわけですか。


 清川 いや、社会人の方は知っていた方が多かったので、ニュースにはなっていたと思います。


 それと、これはちょっと失敗談なんですけど、私たちはきれいに印刷して作った奉迎用の横幕を、日本語のものと英語のものを二枚用意していきました。ところが、二十七日のリサール公園での奉迎で、横幕を持って来るのを忘れてしまったのです。


 私たちは急遽コンビニに駆け込んで、大きな紙とペンとテープを買って、リサール公園の駐車場で手書きの横幕を作りました。通りすがりの人たちが「何をしているのだろう」と興味深げに眺めていたので、「今から両陛下が来られるんですよ」とお知らせしました。怪我の功名といいますか、横幕作りで注目を集めたことで、よい宣伝の機会となりました。


 椛島 先ほどの「比島戦没者の碑」で、両陛下が庭園からお戻りになるのを待っている間、フィリピンの方と結婚して、十数年現地に住んでいる日本人の方とお話する機会がありました。


 私たちが奉迎したとき、両陛下のお車の窓は開いていなかったのですが、その方は、「両陛下も、今日は慰霊をされる日だから、お応えする気持ちにはなられないのではないですか。五十二万人もの方が亡くなっているのですから」と涙を浮かべながら話されていたのが心に残りました。


 ――お車の窓が開かなかった? 他の場所でもそうでしたか。


 椛島 多くの場所では開いていました。開かなかったのは同じ車に乗っておられるときだけでしたから、構造上、もともと窓が開かない車だったのだと思います。


 それでも帰りのお車は、本当に歩くくらいのスピードでゆっくりと通られ、陛下が手を振っておられるお姿もうっすらと拝すことができました。窓の上の部分が少しだけ開いており、それが開くことのできる限界だったわけですが、私たちの声を聞こうとしてくださったのかなと思います。