7月に行われたマダガスカル、ディエゴ・スアレスでの慰霊祭について、「祖国と青年」8月号より、報告記事を紹介します。
去る七月七~十四日、「南阿マダガスカル島殉国英霊慰霊祭奉仕団」十四名(青田國男団長)がマダガスカルを訪問し、北端の港町ディエゴ・スアレスで慰霊祭を行うなどした。
ディエゴ・スアレス湾は、昭和十七年五月、秋枝三郎中佐を始めとする四人の海軍将兵が、二隻の特殊潜航艇に乗り組み、停泊中のイギリス艦船を襲った地である。湾を見下ろす丘には、「特潜四勇士慰霊碑」が建っている。
秋枝中佐が山口県下関市豊北町阿川出身ということもあり、慰霊祭奉仕団は山口県の有志神職が中心となり、結成された。
実は同慰霊祭奉仕団メンバーは、七年前の平成二十年三月、オーストラリアのシドニー湾で、同じく昭和十七年の特殊潜航艇による攻撃で戦死した松尾敬宇中佐をはじめとする六勇士の慰霊祭を行っている。ディエゴ・スアレスでの慰霊祭はそれ以来の悲願であったが、郷土の勇士を現地で慰霊する機会は終戦七十年をおいて他にないと、乾季で比較的過ごしやすいこの季節を選び、ついに実現の運びとなったのである。
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「南アフリカ・マダガスカル島特殊潜航艇四烈士並びに世界殉国英霊慰霊祭」は、七月九日午後、「特潜四勇士慰霊碑」において斎行された。
ひもろぎを立て、しめ縄を張り、純粋な神式での祭典である。祭典が始まる少し前から雲が覆い、時折小雨が振りつける。海風も強く、慰霊碑の前の日の丸とマダガスカルの国旗も勢いよくはためいていた。
斎主は青田國男団長(赤間神宮禰宜)が務め、祭典に先立って、竣工清祓式が行われた。慰霊碑は平成九年に建立されたが、その後の風雨による傷みが激しく、また、銘板なども剥がされてしまったため、衆院議員・西村康稔氏が中心となって修復を行い、合わせて風雨除けの囲いも作った。その改修が終わったのが、今年春だったのである。
慰霊祭では、雅楽を演奏し、神楽「みたまなごめの舞」や秋枝中佐辞世の吟詠などが奉納された他、山口県神社庁理事・田村繁晴氏が、「今から百数十年前に、明治天皇は『よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ』の、祈りにも似た大御心に反して、二十一世紀の今もなお戦禍の止むことなく、四海同胞の願ひも虚しき世の中であります。なればこそ、祖国の為に散華されたご英霊に、感謝と敬意を捧げることは、今に生きる人としての責務でありましょう」との同神社庁庁長・金長広典氏の祭文を代読した。
祭典の最中も、にわかに風が強くなったり、雨がサーッと降ったりして、それがまるで英霊が応えているかのようであった。
慰霊祭には、日本大使館一等書記官・小野知之氏、日本人会代表・田中滋氏の他、ディアナ県知事官房長アントワヌ・ブバ氏、ディエゴ・スアレス市特派助役ベ・タチエンヌ女史、マダガスカル海軍大佐ランジアンベルナリブ氏、ベ病院院長パスカル氏など、現地の名士も参列した。
祭典後の挨拶で、小野知之一等書記官は「特殊潜航艇四勇士をはじめとする多くの先人・先達により培われた両国関係とその歴史を踏まえながら、今後とも日本とマダガスカル共和国、そして両国民の友好関係を増進すべく、努めて参りたいと存じます」と述べ、また、アントワヌ・ブバ県知事官房長は、「日本とマダガスカルが、特に当地で亡くなった将兵たちの愛国心をこの場で思い起こすことは、現在、様々な場で誇り高く同胞のために祖国を救う兵士たちを必要としているわが国に、希望を与えるものであります」と述べた。
青田団長が「終戦満七十年を迎える今年、私ども日本国山口県有志は、祖国より遥か離れた貴国において示された秋枝中佐の愛国心を通して、世界の国々のすべての戦争殉難者のみたまを慰め、世界の真の平和実現をお祈りすべくディエゴ・スアレスに参りました」と挨拶したように、本慰霊祭はひとり四勇士のみならず、全世界の戦争殉難者の御霊を慰め、「真の平和」実現を祈るものであった。
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ディエゴ・スワレスには、イギリス軍墓地、フランス軍墓地もある。祭典後、慰霊祭奉仕団はそれらの墓地にも参拝した。
マダガスカルはもともとフランスの植民地であったが、ドイツに降伏したフランスで親独のヴィシー政権が誕生したため、ディエゴ・スアレスの港をドイツ軍に使用されることを恐れたイギリス軍がここに攻め込んだのである。秋枝中佐らが大破、撃沈させた艦船はイギリス軍のものであった。
今回の慰霊祭はまた、ディエゴ・スワレスはもとより、マダガスカルにおいて日本の神道の儀式が恐らく初めて披露された機会ということになる。現地の人々に日本文化に直接触れていただく、またとない機会となった。
慰霊祭奉仕団は、現地最終日の十三日、首都アンタナナリボのナニサナ高校を訪れ、日本語を勉強する一~二年生と交流。ここでも雅楽を演奏した他、「耳なし芳一」の紙芝居を披露したりなどした。