黒木少佐殉職から70年 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 昨日9月7日は、黒木博司少佐が回天訓練中に殉職された日で、今年はちょうど70年を迎えました。


 毎年、黒木少佐の故郷の岐阜県下呂市で「楠公回天祭」が行われていますが、私も鈴木編集長と一緒に参列してきました。


 「祖国と青年」9月号の「国の鎮めとなりて 回天二」で、黒木少佐の師・平泉澄博士のことが紹介されていますが、昭和39年、この「楠公回天祭」を始められたのは他ならぬ平泉博士で、今も博士の教えを受けた方々によって守り継がれています。


 ご遺族として、黒木少佐の妹・丹羽教子さんと黒木少佐の甥の方が参列されていました。祭主を務められたのは平泉博士の孫・隆房さんで、博士の曾孫さんもご奉仕されていました。




 黒木少佐と平泉博士をお偲びし、「祖国と青年」9月号の「国の鎮めとなりて」から、一節をご紹介します。


 平泉博士は、黒木少佐の精神が高遠かつ崇高であった証左として、昭和十八年二月二十四日付の博士宛書状を紹介している。そこには、次の五首が血書で認められていた。


数ならぬ醜の御楯の賤が身に大人がおもひの厚きかしこし
大皇の醜の御楯といさむ身の月仰ぎては涙こぼるゝ
伊はそむき独は敗れんものなけん葉月霜月近きを如何せん
国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が友々よびて死してゆくらん
国民よとく眼さめかしなれが血に嗚呼楠子論今や此のとき


 この黒木少佐の歌のうち、特に三首目について、平泉博士は次のように指摘する。


「伊はイタリア、独がドイツである事は、いふまでもありませぬ。葉月は陰暦八月、霜月は陰暦十一月であります。独伊両国は、我国の同盟国として相互依頼した所であります。そのイタリアに於いて、ムソリーニ首相が失脚し、バドリオが代つて政権をとるに至つたのは、この年七月であります。ドイツ軍はこの年二月、ソ連に於いて苦境に陥り、漸次敗退します。然し我国に於いては、独伊の悲運一般に知られず、殊にムソリーニが倒れて、イタリアが敵側に寝返り打たうとは、予想する者、殆ど無かつたと思はれます。しかるに黒木少佐は、二月に於いて既に伊の寝返りと独の敗退とを予言し、且つ秋になれば我国は物資欠乏して重大なる難局を迎へるであらうと推断し、当局者の優柔不断、為すべき事を、為し得る時に為さずして、見す見す破滅の淵に近づくを慨嘆してゐるのであります。非凡の見識と云はねばなりませぬ」


 そして、黒木少佐が半年も先の情勢を正確に見透していたことについて、「そのものを見透す力は、全く陛下を仰ぎ奉り、日本国を大切に思はれる誠から出てゐるのであります。その誠、人の誠、誠の力は偉大なものであります。……人の誠が神に通ずる時は、人間業でない事が実際出来るのであります」と言うのである。


 わが国の歴史において国体が危機に瀕する時、必ずその国難を救うべく、傑出した青年が現われた。大楠公しかり、吉田松陰しかりである。その先哲の声に促されるごとくして、大東亜戦争という未曾有の国難を救うべく登場したのが黒木少佐であった。


「黒木少佐の御生前御奮闘の事は実に目覚ましい事でありまして、その御言葉又その書かれましたもの、その行ひが、我が海軍に及ぼした刺戟は実に大きいものでありました。独り我が海軍のみと云はず、日本国全体に士気を鼓舞し影響を与へました事、誠に大きいものがございます。独り我国の士気を鼓舞しましたのみならず、直に敵に対して強烈な打撃、甚大な影響を与へましたこと、誠に顕著なものがありました。(中略)若し黒木少佐出られず、あの大きな働きがなければ、今度の日本の不運はどれだけ悔を残し残念を多くしたか知れません。日本としてやれるだけの事をやつたと云ふ爽快さ、痛快さを持ち得、今の人に僅かな慰めを与へ、後世子孫のために非常な力となり、永久に残るものであります。その回天の大成功ならず、逆境不運にあって、その気魄、その努力、その勇敢さ、よく敵を震撼させた事、必ずや後世に感激感銘を与へるに違ひない。そのことを考へますと、黒木少佐が国家不運の時に出られたのは、非常な神慮と確信するのであります」(昭和二十一年九月六日、黒木少佐通夜における平泉博士の挨拶)