集団的自衛権、今国会中の閣議決定断念 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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 今日、安倍首相が公明党の山口代表と会談し、集団的自衛権の行使容認の今国会中の閣議決定を断念した、というニュースが流れています。


 公明党が安倍政権の足を引っ張っていますね。


 集団的自衛権について、解釈変更は立憲主義に反する、などというおかしな議論がありますが、そもそも現在の「権利はあるが行使できない」という解釈がいつどのようにして出来たものか、「祖国と青年」6月号を読んだ方ならもうお分かりですね。「立憲主義」などと言うのも憚られるような、55年体制化における政治の妥協の産物に過ぎません。


 「祖国と青年」6月号の村主真人氏の論文から、該当箇所を紹介します。



 集団的自衛権を含む自衛権の解釈は、戦後大きく六度にわたって変更されている。


 ここで、現在の政府解釈が出された背景について探ってみよう。現在の日本政府の見解は、昭和五十六年の閣議決定に基づいている。


 政府は、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」と定義づけた。


 そのうえで、「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家として当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解釈しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」(昭和五十六年五月二十九日 政府答弁書)としている。


 今から三十数年前の冷戦時代のことである。「権利を持つが行使できない」という憲法解釈が出来上がったのは、自民党と社会党の五五年体制の対立の下で生まれた副産物であった。


 当時の日本における防衛戦略は、ヨーロッパないしアジアで米国とソ連が全面戦争を戦う中、自衛隊は日本本土を主戦場として、米軍が来援するまでの間を持ちこたえることを前提とし、防衛力の向上が図られていた。


 他方、自衛隊は昭和五十五年(一九八〇)より、米海軍が主宰する「環太平洋合同演習(リムパック)」に参加するようになった。国内では、日米が共同で軍事作戦を遂行するのではないか、自衛隊は米軍の露払いをさせられるのではないか、との批判が持ち上がった。


 「権利はあるが行使はできない」とする解釈変更の閣議決定は、こうした時期に行われている。閣議決定は自民党の鈴木善幸首相の下で行われたが、首相は社会党出身で、いわゆる「ハト派」に属していた。安全保障を熟知した「ハト派」なら救われるが、事実は全く逆である。


 昭和五十六年の日米首脳会談にあわせて、首相は「シーレーン一〇〇〇海里防衛構想」を表明する一方、首脳会談後に「日米関係は同盟ではない」と発言してレーガン政権を困惑させた。閣内でも意見の相違があり、宮沢官房長官は首相発言を支持した一方で、伊東正義外相と外務事務次官が辞表を提出、外相が辞任する事件もあった。


 また、ライシャワー駐日大使の「核持ち込み事前協議」発言への対応もぶれ続け、自民党内でも公然と鈴木内閣に対する倒閣運動が始まるなど、安全保障には、ずぶの素人の政権だった。


 こうした政府の迷走に対して、「非武装中立論」を掲げた日本社会党の石橋政嗣衆議院議員らは、日米同盟により戦争に巻き込まれると、現在にも通じる批判を強め、一定の支持を得た。(当時の社会党は飛鳥田一雄委員長のもとで公明党、民社党との社公民路線の構築を標榜していた時期である。)


 このように、集団的自衛権について「権利はあるが行使できない」という閣議決定は、安全保障政策に無知な政権により、日米同盟が不安定さを増す中、閣僚辞任や野党の国会での攻勢が強まる状況下、苦し紛れに出された答弁書であったと言える。


 憲法が認める必要最小限度の自衛権について、個別的自衛権と集団的自衛権との間に「必要最小限」で線を引き、集団的自衛権は必要最小限のボーダーラインを越えると説明したが、何故そのような解釈となるのか、政府からの説明はなかった。ましてこの論理は、日米同盟に基づく自衛隊と米軍の運用上の課題を考慮したものではなかった。憲法九条のどこをどう読めば「権利はあるが行使はできない」という解釈が生じるのか、内閣法制局はいまもって説得力ある回答を提示していない。