三島由紀夫と「人間宣言」 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」9月号で、鈴木編集長が長谷川三千子先生の著書『神やぶれたまはず』の書評を書かれていましたが、私自身、長谷川先生のご著書を読んで、三島由紀夫さんの『英霊の声』について考えを深めることができました。


 『英霊の声』における「などてすめらぎは人間となりたまひし」という怨嗟の声は、いうまでもなく、昭和21年の詔書、いわゆる「人間宣言」で昭和天皇が「現御神」を「架空なる観念」と否定されたことに向けられています。


 この三島さんの問題提起に対して、「この詔書の主眼目は、五箇条の御誓文を国民に示すことにあり、昭和天皇もそのようにおっしゃっている」という反論がこれまでもなされてきましたが、長谷川先生はこの論を、さらに「これは『人間宣言』どころか『現御神宣言』である」というところまで進められました。


 おっしゃっていることは理に適っており、なるほどそうだ、と思えるのですが、しかしやはり、どうしても三島さんの視点で読んでしまう私には、釈然としないものが残ります。昭和天皇を擁護する論としてはこれで完璧だと思うのですが、そうなればなるほど、三島さんの「人間宣言」に対する憤りが宙に浮いて、行き場を失ってしまうからです。


 確かに、思想的要請として「人間宣言」を実質的に無化する必要があり、そのための論理としては長谷川先生の通りでよいのですが、では、当時の人々がこの「人間宣言」をどのように受け止めていたかといえば、例えば葦津珍彦先生は昭和22年に次のように書かれています。


「この詔書は歴代の詔命を否定し、光栄ある皇室の伝統的権威を無視せられたるかの如き感をおぼえさせられ、(略)皇国屈辱時代の文献として銘記せられるべきものである。この詔書の起草者が時の首相幣原喜重郎男であり、その原文は英文を以て綴られ、それが後に日本語に反訳されたといふ史実の如きは、重大なる国史上の屈辱的史実として銘記せらるるを要する」


 また、長谷川先生のご著書のタイトルの元となっている折口信夫の「神やぶれたまふ」は、実は「人間宣言」にショックを受けて記されたものであると言われています。それだけではありません。「人間宣言」にショックを受けた折口氏は、その後、敗戦まで唱えていた「天子即神論」を翻して、「天子非即神論」を唱え、「人間宣言」を積極的に肯定する立場に立つのです。三島さんは「英霊の声」の前に、「三熊野詣」という折口信夫をモデルにした作品を書いていますが、そこに折口氏に対する何らかの思いがあったことは間違いないでしょう。


 さらに、長谷川先生は三島さんの終戦時の「神の死の恐ろしい残酷な実感」という言葉に注目されていますが、実は三島さん自身、昭和20年8月15日に「神人対晤の至高の瞬間」を見ていたことは間違いありません。三島さんの死後発見された未発表原稿「昭和二十年八月の記念に」(昭和20年8月19日に書かれたもの)を見れば、そのことは疑う余地はありません。ところが、三島さんは「神人対晤の至高の瞬間」を描いたその箇所に、「以下削除」という書き込みをしていました。「削除」は書いた直後に指定したとは考えにくく、やはり「人間宣言」を受けての思いをそこに見ることができます。


 三島さんは憲法問題を論じた「問題提起」の中で、「天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負う、というのが私の考えである」と述べていますが、「人間宣言」によって否定された天皇の「神聖」を取り戻すことこそ、三島さんの願いであり、戦いだったのではないでしょうか。