雑炊橋 | 不思議なことはあったほうがいい

  長野県・松本市街から梓川に沿って南安曇地方を登板すると、 うわー田舎へきたなあ、とおもわせる上高地線の新島々駅。その駅の近くにかかっているPC斜張橋(つまり、橋中の柱からケーブルを出して橋そのものをささえているという、つり橋)。

  

 この橋の由来はこうである。

 昔・昔(平安時代とか鎌倉時代とか……)、このあたりには橋がなく、川をへだてた村同士は目の前に見えていながら行き来が大変だった。なんでも一番近い橋まで10キロちかく山道をゆかねばらならない。ここに「清兵衛」「おせつ」のカップルが、七夕の彦星・織姫よろしく、恋しあいながら、なかなか逢えないでいた。そこで二人は自力で橋をかけようと大奮闘。出稼ぎ・内職、貯金のために食事もきりつめてアワの雑炊……。そんな二人に触発された村人たちも強力し、苦節十年、橋は完成し、二人もようやく結ばれた。雑炊たべて架けたから「雑炊橋」。その当時はもちろん木の橋で、少なくても江戸時代には「刎橋(はねばし)」だった(両岸のガケから木材を宙にわたして、重ねてゆき、その上に橋板をはってゆくというスタイル)。

 地元の人ならみんな知ってるイイ話。橋のたもとの記念碑に「後の世の人の為ともなりにけり 恋故かけし谷川の橋」松波遊山。

 実は、ボクの親類がそのあたりにいるので、たまたま知った話なのだが、イトコに喧嘩うるつもりではないが、なんかヘンだ。

 ハッピーエンドすぎる……。


 橋にかんするお話は各地にあるけれども、たいていドロドロ・グログロ・メソメソした話ばかりだ。

 なんといっても、「人柱伝説」。人柱にされた女性を神様にして、「橋姫さま」とマツッたりしたが、なかには恨みの妖怪になって、橋行く人に災いをなすこともある。夜中、橋上にあらわれて、「コドモを抱いてください……」なんてウブメなことをする奴もいて、一条戻り橋では平季武のコドモ持ち逃げ作戦で撃退された。この橋下には安陪清明式神たちが暮らしていて、清明の奥さんをきーきーいわせた。

 瀬田の唐橋では、「俵藤太」を名乗る前の若き日の藤原秀郷が大蛇=水神の使いとであい、ムカデ 退治をするきっかけとなる。

 酒天童子の手下茨木童子は姿見橋から川面を覗き見て、おのれの鬼と化した姿を確認したという。

 五条大橋では牛若と弁慶が出会ったが、静御前は奥州へ逃れる彼らを追って、行こうか戻ろうか、悩みめぐらしたのは古河の思案橋

 ひどいのでは帝都新宿の姿見ず橋」。中野長者は大金手にした帰り道、秘密漏洩をおそれて従者をここで殺害、ドボン。そののろいで長者の娘は蛇体となった。

 

 橋とは「端」であり、「川」という、内と外のつなぎ道、異界への入り口であった。ゆえに橋のたもとに「賽の神」をマツル風習はいまでものこっている。飛騨にはあの世へつづく不思議な板橋があって、夜中にアヤシのものどもがガタガタいって渡ってゆく俗称「がたがた橋」の話がある。

 

 ……なので、あんまりにもハッピーな「雑炊橋」に疑問をもってしまうのもしょうがないじゃない??


 『三代実録』などによると、ルートの詳細はわからないが、どうやら平安時代すでに、このあたりは飛騨と信濃をむすぶ要衝路となっておったようである。

 この雑炊橋は江戸時代には野麦峠と松本とを結ぶちょうど関所になっており、その名も「橋場」といった。木曽の木材などは厳しいとりしまりもされていたので、勝手に行ったりきたりはできない。だから、橋があったとしても、地元の村人は難渋していたようだ。そこで、川の水の少ない冬場にかぎり「勝手橋」と称して、組み立て式の簡易橋をこしらえて、関所無視して荷物をはこんだりしたそうである。もちろん両岸の村人協力して。水かさのおおいときはちゃんとオカミの橋・雑炊橋を利用したということだ。この「勝手橋」のところにちゃんとした橋ができたのが明治3年。当局の援助もないので、村人たちが自腹でかけたんだと。(いまでは新淵橋という近代的な橋架け替えられた)

  とこれで雑炊橋は元は雑仕橋」とも「雑食橋」ともいわれていたという。それはこの橋をかけた件の娘は「雑仕女」となって働いたからだという。それ、つまり貴族の家の召使いのことだが、そんな貴族があったのかな? 江戸時代なら橋場周辺は宿場町であったから、そういうところで下働きしたっていうほうがリアルだ。

 うーん。民間人がコツコツためて橋をかけたってのはむしろ「新淵橋」の話のほうがシックリくるが……。


  ところで、雑炊橋は江戸時代には12年ごと(または13年ごととも)に橋は架け替えられたが、そのときは村をあげてのお祭りとなった。橋の両側から清兵衛とおせつの人形を山車にのせて婚礼にみたてて渡すという儀式をおこなったという……。その人形は今、梓水大神をマツる大宮熱田神社に保存されているというが、祭りじたいはやっていないので詳細はわからない。(前回の続きみたいだが、ここにも相生の松がある)。

 この地方では結婚当日は「ウケトリワタシ」などといって、受け取る側(オトコ側とはかぎらない)から青年たちが、渡す側のうちへいって、ヨメ(ムコ)を迎えに行く。そこから歩きに歩いて、両家の中間地点(だいたい)で、ヨメ(ムコ)を受け取る側にうけわたし、そこからまたみんなで歩いて受け取る家へ入る。つまり両村の中間点として雑炊橋をみたてているといえる。

 が、、、、。祭りの詳細がわからんので勝手な空想だが、。この橋の上の儀式だけで終わるなら、余計なことを考えてしまう。すなわち、人形がふたりの魂の依代とすれば、二人は、橋の中間、すなわち、梓川に嫁ぐことにならないか? ある話では、清兵衛はじつは「清明」で、おせちは清明のところでした働きをしたとかなんとか……。清明のした働きって、橋の下の「式神」のことでは? 「おせち」の名も、もともとは「おいわ」だったらしいから、「清兵衛」「お節」の話はますます作りモノっぽい。もともとは梓川に召された女と、それを迎えた水神をマツった話だったんじゃなかろうか? 雑炊橋には橋げたがないから、いわゆる「人柱」ではないが、なんか暴れ川と巫女の信仰が、江戸・明治の村人のバイタリティのなかで改変されたんじゃないか?? 

 空想しててもしょうがないので、このへんで……またいつか。