この年になると、新しい作家を好きになる機会が減りがちだ。
そういう意味で、ダイ・シージエの存在が俺には大きい。
『バルザックと小さな中国のお針子』
『フロイトの弟子と旅する長椅子』
どちらも面白い小説だった。
大江健三郎的な諧謔と批評性を持ちつつ、大江さん特有の失調するユーモアはない。むしろ、きっちり笑わせる。新世代の台頭である。
アジア系の作家として、ダイ・シージエは新作を待ちたい数少ない人物のひとりなのだ。
そのダイ・シージエの新作、ただし本業ともいえる映画監督としての新作『中国の植物学者の娘たち』が東劇で公開中だったので、今日出かけてきた。
(もうひとりの注目すべきアジア系作家は当然、超美女ジュンパ・ラヒリだろうが、彼女原作の映画がちょうど今、公開されていることも、“シージエvsラヒリ”という時代の到来を告げてはいないか)
で、『中国の植物学者の娘たち』。
そうか。
映画となると、こうストレートにくるか! と驚くほどベタな悲恋の物語であった。ただし、愛しあう二人が男女でなく、女性同士である。
いわば女性版『ブロークバック・マウンテン』。
どちらも中国系の監督作品なのは、いかなる偶然だろうか。
西洋の中で中国系が置かれる差別的な位置が、同性愛者のそれといくらか似通っているのでもあろうか。
それはともかく、『中国の植物学者の娘たち』の映像からまったくアジアの匂いがしないのが、不思議だった。
背景も小道具もアジアなのに、きれいに脱臭されている。
白人男性が見たアジアのようにオリエンタリズムが色濃く、あたかもビジネスライクに東洋を撮り、レズビアンを対象化している感じ。
ただただ形式的に汗をかき、涙を浮かべる女たち。
ダイ・シージエが書く小説のアレゴリックな部分や、複雑性はいっさい消え、ひたすら本気でハリウッド進出を狙っているがごとき映画作りがそこにはあった。
俺はしかし、むしろその両極をあわせもつダイ・シージエのしたたかさがかえって面白いと思ったのである。
そういう意味で、ダイ・シージエの存在が俺には大きい。
『バルザックと小さな中国のお針子』
『フロイトの弟子と旅する長椅子』
どちらも面白い小説だった。
大江健三郎的な諧謔と批評性を持ちつつ、大江さん特有の失調するユーモアはない。むしろ、きっちり笑わせる。新世代の台頭である。
アジア系の作家として、ダイ・シージエは新作を待ちたい数少ない人物のひとりなのだ。
そのダイ・シージエの新作、ただし本業ともいえる映画監督としての新作『中国の植物学者の娘たち』が東劇で公開中だったので、今日出かけてきた。
(もうひとりの注目すべきアジア系作家は当然、超美女ジュンパ・ラヒリだろうが、彼女原作の映画がちょうど今、公開されていることも、“シージエvsラヒリ”という時代の到来を告げてはいないか)
で、『中国の植物学者の娘たち』。
そうか。
映画となると、こうストレートにくるか! と驚くほどベタな悲恋の物語であった。ただし、愛しあう二人が男女でなく、女性同士である。
いわば女性版『ブロークバック・マウンテン』。
どちらも中国系の監督作品なのは、いかなる偶然だろうか。
西洋の中で中国系が置かれる差別的な位置が、同性愛者のそれといくらか似通っているのでもあろうか。
それはともかく、『中国の植物学者の娘たち』の映像からまったくアジアの匂いがしないのが、不思議だった。
背景も小道具もアジアなのに、きれいに脱臭されている。
白人男性が見たアジアのようにオリエンタリズムが色濃く、あたかもビジネスライクに東洋を撮り、レズビアンを対象化している感じ。
ただただ形式的に汗をかき、涙を浮かべる女たち。
ダイ・シージエが書く小説のアレゴリックな部分や、複雑性はいっさい消え、ひたすら本気でハリウッド進出を狙っているがごとき映画作りがそこにはあった。
俺はしかし、むしろその両極をあわせもつダイ・シージエのしたたかさがかえって面白いと思ったのである。