ニューヨーク狂人日記 -29ページ目

誘蛾灯

宙に浮く。
というのはやはりどこか辛い。
それが直接痛めつけることはないとわかってはいても。
離れたものはいずれ地に戻らなければならない。
りんごはいつまでも浮いてはいられない。

ともあれ着地点を見つけなければ。
ゴツゴツ寝心地の悪い岩場であろうとも。
ぬかるんだ湿原であろうとも。



引越し先が急遽浮いてしまった人がいる。
1週間前になって。
「物に未練はない」
大型のソファーだってやっと引き取り手が決まったというのに。
家族の面々は所在なげにリビング・ルームに散らばってるんだろうか。

考えてみるとソファーというのは現代の囲炉裏のようなもの。
これといった用事もなく、共通の目的すらなくとも。
台所から、風呂場から、自分の部屋から。
あるいは外から帰ってきて。
そこに座っている。

火とは。
灯とは。
かつてそんな存在だったんだろう。
あたたかく。
あかるく。

電気のなかったころ。
貴重だったころ。
人々は人類最大の発明である火を囲んだ。

灯りには。
特に火には。
人を引き寄せるものがある。
誘蛾灯に向かう羽虫のように。

あの光は虫の好む波長を出していると言う。
火の灯りには人間の芯に訴える波長が含まれてるんだろうか。



液晶表示に変わったのはいつのころだったろう。
その昔の電卓は緑色をした7セグLED表示だった。
今、電卓のある家は少ない。
携帯電話で事足りてしまう。
そう、LEDのころは電卓なんて言葉はなかった。
電子計算機と呼んでいた。

それは年齢のせいかもしれない。
小さなころはあの電卓の文字。
漆黒に浮かび上がる8桁の数字に見入ることが好きだった。

ネオンや赤提灯に惹き寄せられるのとは少し違う。
光りそのものに。
闇の中へ引き込まれてしまうような、そんな感覚。
あたかも電卓の表示部の向こうにあとひとつの世界が存在するかのように。

何分でも。
何十分でも。
飽くことなく見つめていることができた。
父や母にそんな姿を見られるのが怖くて、
物音がすると慌てて横にある電源ボタンをスライドさせる。

初期のデジタル腕時計も同じ種類の光りを放つ。
LEDは赤色。
やはり7セグで、背景はこちらも闇。
魅惑ということばがピタリとはまる。
いや、幻惑かな。
とにかく闇の対極として存在をしていた光だった。
光りのためにある闇だった。


今もLEDは存在する。
どころか大流行だ。
それなのに。
信号機にも、クリスマス・ツリーにも。
スーパーのレジで表れる釣り銭表示にも。
吸い込まれる。
あの感覚を覚えることがない。
どちらかといえば拒絶感の方がまさる。



ぼくたちの誘蛾灯は今どこにあるのだろう。
果たしてそれは本当に存在をしているのだろうか。



どこかにあるユートピア。
どうしたら行けるのだろう。
おしえてほしい、



一度でもそんな光りを目にした者は。
たとえそれが曙光であろうとも。
歩いていかなければならない。
歩かずにはいられない。
歩きつづけなければ。
たとえその先に闇が口を開いていようと。

はた目にはバカで不幸に見えるだろう。
でも決して不幸ではないのだ。



ぼくも明日のランチまでは宙に浮いている。
なんとか具合のいい場所へ着地できるといいのだけれど。
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O。

100歳まで生きるとしたら。
きっとそうだろう。
三つ子の魂百まで。
いろんなところで思い当たる。

人に読んでもらうために初めて書いたのは壁新聞。
読者3名。
父、母、姉。
2階へ上がる階段の途中に毎週セロテープで留めていた。
外側から決して拭かれることのない埋め込みガラスの下に。
30センチ四方のぼやけた光の下に。



今とは真逆てハウ・ツーものの本が好きだった。
さっそく小学校の図書館で借り出した新聞の入門書。
ベレー帽をかぶった子供の挿絵が説明をしていく。
今も覚えていて、時によみがえり、そのくせ徹底できていないもの。
5W1H。
この言葉を覚えたのもこの本だった。
5つのWと1つのH。
Who、What、When、Where、WhyそしてHow。



欧米人はどうして略語が好きなんだろう。
今話題のTPPはTrans Pacific Partnership
EUの鬼っ子PI IGSはPortugal、Italy、Ireland、Greece、Spain
ASEANはAssociation of South Asian Nations。
IBMはInternational Business Machine。

で、TPO。
Time、Place、Occasion。
時、場所、目的。

時と場所をわきまえなければ
「お呼びでない?
お呼びでないねぇ?
あ、こりゃまた失礼致しましたっ!」
笑って消えるしかない。

ぼくの鞄の中にはTもPもない。
見方を変えれば電車の中、公園で、弁当の手前に広げ、飲み屋で……。
と寝技に持ち込むこともできるけど。
それでもそこにはOしかない。



江戸の町を徘徊してみたいとき。
あのころのNYの風を感じたいとき。
気分を持ちあげたいとき。
その人になりきってみたいとき。
頭の闇をそぞろ歩きたいとき。
あの匂いを嗅ぎたい。



そんなわけでぼくの鞄はいつだって重い。
用心深い性質なのでついついすべてのOを放り込んでいる。
今のOは。

『霧の果て』藤沢周平
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『ニューヨーク物語』ピート・ハミル
『ダメの人』山本夏彦
『ふたたび女たちよ!』伊丹十三
『老妓抄』岡本かの子
『同日同刻』山田風太郎
『わが柔道』木村正彦



今日も鞄が重い。

本当はこんな読み方はよくない。
1冊の本ひとつの世界。
そうしてぼくの頭は分裂を繰り返していくのかもしれない。


O。
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メキシカンが懸命にブラシとホースを使う。
歩道と車道のヘリのお掃除。
ゴミの出し方が悪いんだろう。
たまに掃除前に通りかかると臭い。
毎朝出会う光景。

少し離れた寿司屋では毎朝水打ちをする。
ゴミのせいではなくて。

また出ていた。
数日前には止まってた人工滝が落ちている。
通り抜ける透明チューブの中で記念撮影をする人。
額に飛沫が落ちてきた。
「あ、ここの水は循環型だったな」
あまりきれいなわけじゃない。
厳寒の冬、滝は止まっても水槽の水は動きつづける。
ほんのわずかずつだが。
凍りついてしまわぬように。
かつてロシアは南下策をとった。
不凍港がほしくって。

額のしずくが記憶をたぐりよせる。
もや。
不安。
「あれはどうしたっけ?」
定かじゃない。
もやの中。
帰る頃には上がっていた。
店を出るときレインコートを羽織ったっけ。
アパートでたしかめなくっちゃ。
1日中もやの中にいる。
飲み屋に電話をすれば済む話なんだけど。
めんどくさい。

満員電車の中に穴が開く。
誰も座らない席があった。
オレンジ色のプラスチック座席に。
小さな水たまりが出きていた。
大きめの猪口をこぼしたくらいの。
死んでしまうわけじゃない。
汚いものでもない。
飲むわけにはいかないが。
それでも座る者はない。
畏れでもするかのように。



水たまりの中に津波が見えた午後17時27分。
レインコートはハンガーにぶら下がっていた。
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ホンダラ

ある意味、この歌との出会いがぼくの人生を変えました。
特に4番が。

権藤君、あんたね。。。



知事としてはダメだったけど、
青島幸男は天才だな。

黒川紀章の知事も見てみたかったし、
ドクター中松でもいい。
秋山聖徳太子も。
赤尾敏がなったなら今頃どんな東京になってただろう。
でも、やっぱり裕也さんかな。TOKYO。



ホンダラ。




ホンダラ行進曲




赤尾敏さんの都知事政見放送






裕也さんの都知事政見放送



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最初の英語

なんだったっけ?

「ワン」だの「ツー」だのは知ってた。
「ラジオ」もあったし、「テレビ」だってそれなりに普及してたし。
シャボン玉「ホリデー」には「スター」や「クレイジー・キャッツ」が出ていた。
鉄腕「アトム」は空を飛び、
黄金「バット」も彼なりの方法で闘っていた。

それでも生活の一部ではなく、
英語を、英語として、異国を感じたのはなんだったっけ?



「チェンジ」
だったように思う。
今ではおぼろ月のような印象も出てきてしまった
オバマ大統領のChangeではなくて。



野球は小学校に入ってから。
なんせ初期投資に金がかかる。
ぼくが子供のころより確実に裕福になった今、
初期投資額としてはグンと格安なサッカーに
みなが幼稚園の頃から熱中しているというのも面白い。

それは「巨人、大鵬、玉子焼き」といわれた時分。
ぼくはその尻尾あたりつかまってた。
もちろん子供はそんな言葉は知らなかったけど、
幼稚園のときに持ってたメンコにはボヤケた大鵬の写真があった。
黄金バットだってまだまだがんばっていたし、
コウモリは不気味な存在じゃなくいいやつだった。
まだグローブや軟球に初期投資ができないころ。
チャンバラや戦争ごっこでいつも怪我をしてたころ。



バッターでもない、ピッチャーでもない。
アウトでもなく、セーフでもなく。
ヒットでもデッドボールでもない。

口々にその言葉を叫びながら夕方の運動場を走る。
ホームベースの方へ。
ホームベースの方から走るときに叫ぶ者はいない。

「チェンジ」それが最初の英語だった。



大声で叫ぶ。
チェンジは攻守交代ではない。
チェンジという行為だった。
チェンジはチェンジだった。
英和辞典でははばなく英英辞典だった。

うれしさに包まれたチェンジ。
悔しさにうつむくチェンジ。

そしてその言葉を叫ぶとき、
むこうに大きなものを見ていた。
英語、外国語という知識。
それを口にする、どこか少し大人になった自分。
少しだけ誇らしい。
チェンジの中に含まれてるという自信。
言葉さえ知らなかった文化というものの手ごたえ。
そしてアメリカ。
少し近くなった。
もちろん子供はそんなことは考えてないんだが。


サッカーのチーム名をほとんど知らない。
皆無に近い。
それでも耳にした響きが独特のものであることを覚えている。

あれは何語でどこの言葉なのだろう。
言葉のふるさとに何か深いゆかりでもあるんだろう。
たしかイタリアを思わせるチーム名もあった。
●×トスなんてスペインっぽい。
少なくとも中国や韓国を連想させるものを聞いたことはない。
日本のチームに限っては。

そして子供たちは、
チーム名や用語を口にするとき、
あのころのぼくと同じ気持ちを抱くことがるのだろうか。
遠い国を感じたりするのだろうか。
そう願いたい。
はばたけ。


チェンジという言葉はトキメキ。
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twinkle

気づくと灯りのことを考えてることがよくある。



気張ってつけたんだろうなー。
誠輝。
本名。

大好きな名前。

はい。
完全に名前負けです。
でも負担に感じたことはない。

でも、「輝く」というのはぼくにはピンと来ない。
それは今だから、こういう人生を歩んできたから言える。
別の道をたどっていたならば
ピンと来るかもしれないし、
それこそ対照的な暗黒だった可能性もある。



光としては太陽の輝きよりも、
遠い遠い空の彼方うっすらと光る三等星。
そんな光り方が好き。
今にも消え入りそうだけど、
どっこい消えていない。

「眠ってないぞ~」
突っ伏してた酔っぱらいが突然「ムクッ」と起きるように。
そしてまたいびき。

ことばとしてはきらめきなのかな。
でもちょっと違う。
漢字にするともっと違う。
煌き。
火に皇だ。
右側がきらい。

日本語に適当なことば、漢字はないのかな。
表情豊かといわれる言葉なのに。
言葉って便利なようで不便で、
やはりそこには限界がある。
輪郭があるから。

Twinkle
それが一番近い、今のところは。
キラキラではなく、
きらり。

いつかブラックホールになるんだろうけど。



光は闇のためにあるが、
闇は光のためにあるわけじゃない。
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午前6時45分 華氏32度。玉ねぎを思う。

寒い。
とはいってもやっと普通の冬。
そんなところだ。

外側、2枚目のドアを押すと
冷気のしみこんでくるのがわかる。
玉ねぎのことを考えていた。

寒い。
ちょっとナメてた。

先週と同じ格好。
Tシャツ、長袖シャツ、フリースのベストにコート。
下はというとギンガムチェックのトランクスにチノパン。
コットンのマフラーがギンガムなのは決してそろえたわけじゃない。
そういえばいつも靴下と同じ色のパンツをはいてる友達がいたな。

過ぎたことを思ってみてもしようがない。
明日はどんな格好で出かけよう。



ひとつずつ。
ひとつずつ加えていく。
出し惜しみをするわけじゃないけれど、
冬の長さと深さを考えながら。
小出しにしてゆく。
さて、最初は何にしよう。

ベストをセーターに替えようか。
ヒート・テックのシャツ着こむか?
股引を先にするのが常道だろうか。
マフラーをウールにするのもいい。
今朝はフードをかぶる人が目立つ、やっぱり毛糸の帽子か。
気前よくダウン・ジャケットにするか。
革ジャンもいい。
靴に中敷きを入れるそんな手もある。
厚手の靴下も温かい。
外で本を読むからやっぱり手袋かな。

日本では馴染み深いカイロやマスクの選択肢はない。

さて、どれにしよう。
重ね着の順序、秩序、きまり、方法といったものはあるのか。
毎年やってることだけれど1年も間が開くとゼロに戻る。
今年は日記につけておこうか。



1枚ずつ着こんでゆく自分の姿が玉ねぎに見えてきた。
重ね着をすると温かいのは、
空気層の断熱作用。
玉ねぎは冬に耐えるために何層にもなっているんだろうか。
聞いた話だと暑さには強くないらしい。
1度着てしまうと脱げないからだろう。

薄茶の薄皮の下から現れるツルンとした白い肌。
蒼い空に浮かぶ夜明けの月とが重なった。
少し先で犬を歩かせる人が2人。
午前6時45分、白く輝く玉ねぎの下。



猿にラッキョウをやるとひたすら皮をむき続け、
結局は何も入っていなかったことに怒るという。
本当だろうか?

猿にラッキョウを与える人を少なくともぼくは見たことがない。
これだけ知られている逸話なのだから、
誰か試してみてもよさそうなものだけれど。
49年の人生で1度だってラッキョウをむく猿に出会ってない。
うまいラッキョウが食べたい。
袋入りや、瓶詰めじゃないやつ。

何も入っていないんだろうか。
何もないのか?
見えてないだけじゃないのか。

芯がある。
たまに薄緑をしたものに出会うとニヤついてしまう。
ハズレくじを引いたような気分になるのが本当なんだろうけど、
ぼくは少しだけうれしい。

オニオンスライスが好き。
繊維を断つ方向に切るほうがうまい。
シャキシャキ感が違う。
CTスキャンの画像は玉ねぎの輪切りに見える。
なぜかバウムクーヘンは浮かばない。



暖かくなってくると。
1枚。
1枚。
また1枚。
むかれてゆく。
芯が熱気と湿気で腐ってしまわぬよう。

そうしてぼくという玉ねぎを最後までむいてしまった猿はどうする。
怒るのか、それとも大声を上げて笑いこけるのか。
そこにあるはずのものを目にして、または見つけられずに。



壁になっていた。
人口滝が止まった。
華氏32度(摂氏零度)の朝、バルブは開かれない。
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ペンをながめながら

あの1日のことを思い出してる。
あの町のことを。
このペンを買いに行った日のことを。

よく晴れた春の日。
電車を乗り継いで行った初めての町。
文房具屋へ行くために。

コクリ、コクリ。
ひっくり返りそうでひっくり返らない。
昼前の電車で熟睡をする若い女性はOL風。
春物のコートを着ていた。
どう見てもわけありにしか見えない、
熟女と若い男の2人連れ。
窓から桜が見えた。

小さな駅。
何重にもペンキを塗られたらしいコンクリートのベンチの角は丸い。
ホームでおしゃべりをする2人の女子高生。
駅員が見あたらない。

駅前商店街の町並み。
コロッケを揚げるにおい。
ガラス越しに見える小さなレストランは満席だった。
中華料理屋の日替わりランチは麻婆豆腐。
商店街の終わるあたりにあったおすし屋さん。
コンビニのたば用のガラスケースは空っぽだった。

薄暗い狭い階段の先にある喫茶店。
焼きたてのピザは小さい。
よく冷えたキリンビールの小瓶が水滴を浮かべる。
トイレのタイル。
和式便器に電動ゴミ箱。

文房具店ご店主夫婦の笑顔。

交通整理をするガードマン。
不法駐輪の自転車がトラックに放り込まれた。
偶然、久々の再会を果たしたらしい女2人が、
線路沿いで立ち話をする。
通り抜ける電車の音。
踏み切りの警報機の音。

券売機の下、釣り銭が銀色のトレイにすべり落ちる。
初めて乗る路線の不安。
乗り換え駅のざわめき。
足早に歩く人たち。

小さなたターミナル駅。
蛇の目ミシンの古い看板、雨の匂いがする。
木造平屋のタバコ屋でLucky Strikeを買う。

ロータリーを交差する歩道橋。
スーパー入り口には3人の若者が座りこんでる。
閑散とした店内。
アナウンスが聞こえる。迷子みたいだ。
トイレを探して地下へ。

細長いセルフ・サービス・カフェ。
タバコの煙で燻製になりそうだ。
携帯に大阪弁でまくしたてる男。
ラップトップをを覗きこむサラリーマンたち。

笑顔で改札に現れた細長い旧友。
闇市を彷彿させる迷路みたいな商店街に連れ込まれた。
おでんや屋。湯気。
ビールのあとは、東京地酒のワンカップ・丸真正宗を2本。
気仙沼が被災しサメが入らないらしい。
ハンペンはなかった。
「震災のため帰国しております」
隣の中国料理屋シャッターにはまだ貼られているんだろうか。
残ったスープに七味をふりかけ飲み干す。

騒々しい海鮮居酒屋。
炭火の匂い。
飛び交う声、声、声。
職人が名刺を渡してくれる。

新宿駅で乗り換え。
雑踏。
しばしの別離。

到着駅コンビニで買った焼きそばパン。
坂の途中、暗闇にぼんやりと浮き上がる自販機の光。
母の家のカーテンからは灯りが漏れている。


あれは今年の誕生日前日だった。
4月11日。
震災からひと月。
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Dejya-Vu

不思議なことが起こる。
不思議なことは起こる。

自分が不思議と思ってるだけで、
ぜんぜんそんなことはないのかもしれない。
いや、きっとそうだろう。



目端でしきりに動きつづける。
上下に。
止まらない。
いつまでも
まるで太古からからそこで動きつづけていたような。

イライラする人もいるらしい。
ぼくはそれほどでもない。
それでも気になる。
少しだけ体の向きを変えた。



貧乏ゆすりをする男がいる。
1秒に3、4往復ほどもする。
大きな黒い革底が空を切りつづける。

こんな風景の中に以前もいたことがあった。

いつもの席で飲むいつもの酒。
カウンター一番奥、右肩を壁にあずけて。
デジャヴュ。
ちょうど2週間前の今日も靴が揺れていた。
そう、あの日も今夜と同じ、こんな雨降りだった。

そして。
あの夜の男もあの席に座っていた。

大声の協奏曲。
インプロビゼーション。
多くは笑い声だが、時折叫びに近いものが交じる。
若い中国人男女、5人のグループ。
飛び交う言葉は英語。
2世か、3世たちなんだろう。

昂り、高い場所で安定をしていく声、声、声。
どんな場所にも冷静な第三者の目で己を見ることのできる人間は居る。
"Yo, Yo, Yo. We're not in Chinatown, right?"
10分おきに場を鎮めようと試みる1人の男。
しばらくトーンは落ちるのだが2分もすれば元の木阿弥。

昂り、そして収束。
そんなことが陸上競技のインターバル・トレーニングのようにつづけられていく。
そんな間もけっして止むことのない靴の上下動。
渦を巻いていく声、声、声。
たしかなリズムで刻まれる靴底を見ながら、
アナログ腕時計の裏蓋奥で回る小さく精巧な歯車を思い浮かべていた。



気がつかないのだろうか。
気がつかないのだろう。
病気なのだろうか。
病気なのだろう。

長い時間同じ席にいれば目に入ることも1度や、2度じゃないだろう。
そのとき彼はどういう意識でもって動くことをやめぬおのが足を見ているのだろう。
入り口あたりでうごめく新しい客。
カウンターから差し出される出きたての料理。
感覚としてはそれらと同次元なのだろうか。

それとも自分の力ではどうすることもできぬ、
上空から落ちてくる爆弾を見上げる人のような気持ちなのだろうか。
一種の無力感につつまれて。

それともまったく別の世界の出来事として。
いつか見たことがある。遠くを眺める目で。
デジャヴュ。
見つめているのだろうか。



貧乏ゆすりが病気の一種であるということは、
「なんとなく」だが理解してる。
それでも己の足が目端で動きつづけるとき、
持ち主にはどんな感覚が生まれるのか。
それを知りたい。



そうして今夜も背後のあの席では。
別の男が貧乏ゆすり。
あの夜と同じ小刻みな動きはいつまでもやまない。
あの椅子には貧乏ゆすりの神が憑いているのだろうか。



今の自分がどこに居るのか自信が持てなくなってきた。
飲み過ぎじゃないはず……だけど。
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すんでのところでセーフ。
今朝は。
実に危ないろころだった。

それにしても。
どうしてこうも忘れてしまうんだろう。

社会の窓を閉め忘れてしまうことがある。
平均すると月2回。

冬はまだいい。
上着があるから。
夏は。
ポッカリ。夏の太陽が輝く。

それほど社交的だとは思わないのだけれど。



自分だって恥ずかしいが、
相手も困る。

横腹とか尾てい骨あたりに窓があれば、世界はまた変わったろう。
いったい誰がこんな場所に窓を開け、そもそもこしらえようなんて考えたんだ。

理由はわかる。
「便利だから」
横でも後ろでもいけない。
ここにあるからこそ価値がある。
ここ以外の場所だと小用を足すとき、
スウェット・パンツのようにズボンをずり下ろさねばならない。

それでも。
横開きだったら。
お互いにこんな恥ずかしい思いをしなくてすむ。
すべてを手にすることなんてできない。



どうして恥ずかしいか?
ソコにはアレがあるから。
顔を赤らめる女性だって。
ソコにアレがあることを知ってるから。
個人的なもの。社会的世界。

半開きの金庫に札束が見えるようなもんだ。
出勤したら、注ぎたての生ビールが机に置かれてるみたいなもんだ。


「いけない。いけない」
硬くこぶしを握りしめ、目を伏せる。
こちら側の世界に留まるために。
社会はそんな風に出きてる。



日本でびっくりすることがある。
喫茶店で、
財布や携帯を置いたままトイレへ行ってしまう人がいる。
結構いる。
ニューヨークだったら……。
「いけない。いけない」

日本はいまだに平和な国じゃあ、ある。
でも人の心を弄んではいけない。
月に2回。
全開の窓で出かけてしまうのは、
無意識下で社会の試金石となっていると言えないこともない。
社会奉仕。



社会の窓。
とはいうけれど。
ここがあまりにもソーシャライズされぬゆえこそ社会は成り立つ。
個人と社会の間の窓。
ただ、そこは壁ではなく窓。
しっかり戸締りをする人。
泥棒に入られてしまう人。
ノックされればすぐに開けてしまう人。

戸締り用心。
火の用心。
高見山。
丸八真綿。
日本船舶振興会。
笹川良一。
月に一度は大掃除。
A級戦犯。
B級グルメ。
児玉誉士夫。
一日一善。

むなしい響き。


そういえば。
開いている。その事実に気づいた後、
周囲の反応に思い当たる節があったりする。
視線が何度も逃げたり、戻ったりする人。
凝視する人。
本の横から突き刺さる視線。
笑いをこらえようとする人。

熱もなければ、光もしない。
それにしてもどうして視線というのを感じることが出来るのだろう。

ちょっと前に読んだ本にこんな一節があった。
『......教育のないものはまじまじと見、教育のあるものは見ないふりをして見た』
窓の話ではなく、欠点の話。
似たようなもんだ。

そんな反応を愉しむために、
時にわざと窓を開けて出かけてみるのもおもしろいかもしれない。



子供のころに見た夢は現実となった。
今ではテレビ電話がある。
グラハム・ベルが電話を発明したころ、
もう社会の窓はあった。
それから今まで革命は一度だけ。
チャックができた。
窓は閉めるためにあるのか。
それとも開けるためなのか。

もう進展はない。
この窓は究極の形をしているんだろうか。
それとも、そんなことを考える暇もないほどぼくたちは走り続けてきたのか。
FAX、原子力、インターネット。月にも行った。帰ってきた。
死んだ人だっているんだろう。
きっと。
永年ガソリンだった車も今は電気で走る。
チャックという汽車は今も線路の上を往復する。



前に座る若い女を見ながら。
開かれた窓に遭遇した女の気持ちが氷解する。

ミニスカートに黒いストッキング。
股を広げて眠りこける若い女。
「いけない。いけない」



それにしても。
どうしてニューヨーカーは股を広げて座るんだろう。
満員であろうと。
男も女も。
見渡してみると膝をつけるのは1割もいない。
かかとをつけるのはその半数もない。

身体構造上できないのだろうか。
足が長すぎるのか。
それとも、これこそがホウレンソウの缶詰を作り出してしまう文化なんだろうか。



社会の窓。
子供のころは平和の窓と呼んでいた。
昔は世界平和のために窓を開いていたんだろう。
少子化なんて言葉はなかった。

玄関ドアに『チャック』と大書しようか。
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