このたびの令和6年能登半島地震で被災されたすべての方々に対して、衷心よりお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
2023年時点
今から12年前の2011年3月11日14時46分のマグニチュード9.0の大震災の影響で福島原子力発電所の事故が発生。放射能の数値上昇により住民たちに一斉避難が指示された福島県浜通り地区にやってきました。
今でも、時々、震度4クラスの地震が続き正直不安な毎日ですが12年経った今でも、放射能による風評被害が絶えない福島県浜通り地区の現状を知りたいと思い福島県の復興予算より20万円の補助金を受けて見学ツアーで訪れてみました。
浜通り地区とは、福島県の海側に位置する市町村で、相馬市、南相馬市、双葉町、楢葉町などがあり、テレビ番組の「鉄腕DASH」の「DASH村」もあった地域です。
ここは2011年3月11日大地震と大津波の影響で東京電力福島第一原子力発電所の放射能災害により多くの住民に避難指示が発出、多くの住民達は避難生活を余儀なくされました。
まずは、東日本大震災・原子力災害伝承館を紹介します。
ここでは、今から12年前に起きた東日本大震災の津波や原子力発電所の事故について学びます。
まず、駐車場には、放射線量を測るモニタリングシステムがあります。
このモニタリングシステムは至るところに設置されています。
見にくいですが、当日ここでは0.059μ㏜/hとなっています。
0.059μ㏜/hとは、日本国内では平均値くらいだと思いますが、どこに行っても世界中「0」になることはありません。
参考値: 東京都新宿区0.04μ㏜/h 東大阪市0.08μ㏜/h 福岡市0.06μ㏜/h(23/1/26)
今でも福島県双葉町の双葉駅付近では2.0μ㏜/hとかなり高い場所もあるのも現状です。
伝承館内に入ると、大きな窓がありとても明るいロビーが広がります。
ここには、津波被害以前の生活の様子が見られる模型があります。
海沿いに多くの家々が立っています。
上の模型の場所は津波被害で全てが流されました。
下の写真の通り今でも伝承館のほか数件の建物しか建っておらず、茶色い草が生えているだけです。
草原の奥には青い太平洋が見えます。今では静かで穏やかでとても美しい太平洋が広がっています。そんな穏やかな海が突然牙を剥き人々の命と生活を奪い取りました。
福島の普段の海はとてもいい波を受けているため多くのサーファーも訪れています。
こちらは、全国から送られた衛生関連の支援物資です。
殺虫剤、マスク、体温計などがあります。
沖縄のご当地ヒーロー「琉神マブヤー」のティッシュペーパーもあります。
地震と津波の影響で止まった時計や土台ごと流されたポストなどが展示されています。
津波被害で潰れた消防団のポンプ車。
当時、消防団員は最後まで津波からの避難を呼びかけたそうです。
津波の凄まじさが感じられます。
福島第一原発の模型には当時の様子が再現され、散らばった瓦礫や消防車が見えます。
こちらは、いわき・ら・ら・ミュウで見つけた避難所の様子が再現さた場所です。
段ボールで仕切られ、床にはブルーシートと毛布が敷かれています。
広さは、1人につき畳1枚ほどです。洋服の掛かった場所は恐らく2人用だと思われます。
読みかけの新聞や食べかけの食料が再現され、まるでホームレスの生活のように見えました。
最低限のプライバシーは守られているものの長期間の避難生活ではかなり大変だったと思います。
避難所の再現
当時は3月でも東北のため、まだまだ寒かったそうです。
避難所の体育館の床は冷たくシートと毛布だけでは寒さに耐えるだけでも大変でしたとのことです。
フィールドワークへ
翌日は、貸切バスに乗り震災と原発事故の被害が大きかった場所へフィールドワークへ向かいます。
車内には伝承館の語り部さんが同乗し、車窓越しに当時の様子をガイドします。
まずは、2022年に避難指示か解除され動き出した双葉駅方面へ。
双葉駅周辺もとても静かです。
2022年3月に9年ぶりにJR常磐線が全線運転再開し、双葉駅も動きだしました。
駅にある時計は大震災で止まったままになっています。
まだまだ時が止まったままと感じる双葉町
町内には復興に不可欠な国道6号線が南北に通っており、道の左右には廃墟と化した家々が立ち並んでいます。
屋根は落ち、外壁は崩れ、生まれ育った家を離れたまま避難生活を続けている人達の住宅が数多く見られます。
ゴーストタウンという表現が正しいかわかりませんが、まだまだ時が止まったままで不思議な感覚が襲います。
唯一、時を刻むと感じる場所、それは南北に通る道幅数メートルの国道6号線のみ。住人たちの乗用車も走っていますが、半分以上は復興のための工事車両です。
国道6号線沿いにも多くの住宅や商業施設が建っています。
首都圏でもよく見かける大型家電量販店では、地震の翌日にオープンを迎える予定だったそうです。
店舗には多くの商品を運び入れましたが、福島第一原発の影響で避難をした後に、店舗内の商品は何者かに全て奪われてしまったという話です。
国道6号線から枝分かれする道は今でも帰還困難地域としてバリケードで行く手を阻んでいます。
関東でもよく見かける回転すし店、紳士服、ホームセンターの看板はそのままですが、営業しているかも不明なほど廃れきっていました。
上の画像は、除染作業が終了していないため、一部の許可された者しか入ることが出来ない場所です。許可証が必要な場所の為、常にガードマンが立っています。
こちらは双葉駅周辺です。
住宅も老朽化が進み半壊状態。
赤い屋根は崩れ落ち、外の塀も崩れています。
このような住宅が町中の至る場所で見られます。
見た目では普通に人々が暮らしている町のように見えます。
しかし、ほとんど住民は歩いていません。
双葉駅前に2023年2月にようやく双葉町診療所が開所されましたが、双葉厚生病院は原子力発電所の事故により今でも閉鎖となっています。
2023年には、診療所の他に唯一のコンビニも開設され、全国的に大きなニュースになりました。
町唯一のコンビニエンスストアーはファミリーマートで、お昼には多くの列ができるほどです。
病院の駐車場には駐車車両があります。しかし、車体は錆、ナンバープレートの文字は消え、突如として人々が消えた印象を受けました。
津波の被害が「0人」の請戸小学校
次に海沿いを見学します。
このあたり一帯は一切乗用車は通らず大型の工事車両だが往来しています。
塩害で枯れた木々が立っています。
この辺りは請戸小学校の建つ請戸地区です。
下の請戸小学校は海から約300mの場所にあり、震災当時教師や児童82名がいましたが被害者は「0」だったとのことです。
津波被害を免れた理由として、大地震の2日ほど前から海の変化に気づき避難ルートの確認や近所からの避難の呼びかけがあったからだそうです。そして、津波の時は遠くに逃げるのではなく1mでも高い場所に逃げるといった小さな知識があったことも大切とのことです。
そして、何より大切なこと、それはマニュアルより臨機応変な対応が生死を分けたと語ってくれました。
フィールドワークに同行してくださり当時の様子を生々しく語ってくれる語り部さん。
ここは、請戸小学校から1.5㎞ほどの場所にある大平山です。
今いる高さも数メートルほどの場所ですが、ここに避難した請戸小の児童たちは助かりました。
しかし、少しでも遠くに逃げようと自動車で避難した人々は渋滞にはまり、結果的に津波に流され亡くなったそうです。
大平山、今では震災の慰霊碑が建立され駐車場やトイレも整備され震災時の避難場所になっています。
大平山からは特別綺麗な景色は見えません。
しかし、何かに取り付かれるかのように時間が許される限り茶色い草原を見つめていました。
震災当時、悲鳴や泣き声が響き渡っていた場所、今では静かで風の音しか聞こえません。
いろいろな話を伺い80年前の戦争とコロナ渦の現代と似た部分も感じられました。
犠牲になられた方々の名前の刻まれた慰霊碑と広い太平洋に向かって手を合わせ、大平山を後にしました。
2023/1