昨日は、浦和コミュニティセンターで、
原爆死没者慰霊式が行われました。
さいたま市南区の別所沼公園には、
埼玉県原爆死没者の慰霊碑があります。
毎年、この場所で慰霊式が行われていましたが、
昨年は、70周年の節目ということで、埼玉会館で行われ、
今年から、被爆者、関係者の高齢化に伴い暑いなかの外は大変ということで、屋内での開催になるそうです。
昨日は、自民党、民進党、公明党、共産党の国会議員はじめ、県議、市議、社民党の埼玉県連合会の代表なども参加しました。
各政党代表一人の国会議員があいさつを行いました。
写真は、わが党の塩川衆議院議員です。
71年前の8月6日と9日。
広島と長崎に原爆が投下されました。
原爆によって数十万に及ぶ方が命を失いました。
そして今なお、その後遺症に悩ませれいる方がたくさんいます。
様々な理由で、広島、長崎から埼玉に移り住んだ被爆者がいます。
県内の原爆死没者1382人の名簿が祭壇に供えられた。
被爆者は、ふたたび同じ苦しみを地球上のだれにも味わわせてはならないと、
核兵器も戦争もない世界の実現をずっと求め続けています。
しかし、世界には、1万5千発余りの核兵器があります。
何のために?
広島市長からのメッセージには、
「核兵器は非人道の極みであり、絶対悪です」
「人は、国籍や民族、宗教、言語などの違いはあるものの、同じ地球で暮らし、一度きりの人生を懸命に生きています」
「私たちは、人として、共に生きるため、核兵器による非人道的な脅しに依存することなく、人と人との繋がりを大切にした未来志向の対話ができる世界を築く必要があります」
とありました。とても感銘を覚えます。
この日は、参加者全員から献花を行い、
そのあと被爆者の声と題した朗読が行われました。
当時、10歳だった女性からの声の一部を紹介します。
「戦争が始まり、どんどん物がなくなり、夢にカステラやゼリーが出てきて、朝起きて押入れの中を必死で探した覚えがあります。
毎晩のように空襲警報がなり、夜中に起こされました。
家の前の一角が強制疎開になり、お向かいの大きなお宅が朝鮮人の作業員宿舎になりました。
朝鮮人の人たちはとても優しくて、よくパンを持ってきてくれました。
「アイゴー、アイゴー」と泣いている男の人の声が聞こえました。なんであんなにいじめるのだろうと、家の2階から心を痛めながらかわいそうな光景を眺めていました。
8月9日午前11時2分、私は妹と庭のミカンの木の下で遊んでおりました。
家の横に小川があり、男の子3人が、パンツ1枚で遊んでおりました。
飛行機のブーンと言う音を聞き、ああ飛行機だと思ったそのとき、ものすごい光と同時にドンという音がしました。
びっくりして家の中に駆け込もうとしたら、下駄箱も食器棚も倒れ、母と姉は台所でカボチャを煮ておりましたが、割れたガラスが鍋に入ってしまい、食べることができませんでした。
私と妹はミカンの木のおかげで無事でしたが、川にいた男の子も、畑にいた近所のおばさんも火傷をしておりました。
あくる日、父を捜しに出かけました。けが人や真っ黒こげの人でいっぱいでした。馬も死んでおりました。市内にはいけませんでした・・・」
帰ってきたお父さんは、ブラブラ病で寝込み、被爆から17年で亡くなったそうです。お母さんは、丈夫な人だったのに、被爆以来いろいろな病気にかかり後遺症に悩まされ、亡くなり、お姉さんも癌で亡くなったそうです。
原爆被害への国の償いも、核兵器廃絶も未だ実現されていません。