(滋賀県竜王町 源義経元服の地)

 

 

夏草や兵どもが夢の跡

松尾芭蕉

 

 

私の記憶では、昔は「日本史の偉人ランキング」などを取った場合、

 

織田信長

坂本龍馬

源義経

 

この3人が「不動のBIG3」だった。

今、ネットなどでそういったランキングを見てみると、織田信長・坂本龍馬は相変わらず不動だが、源義経はだいぶランクダウンしている。

かろうじてベスト10には入っている。

が、義経ファンの私としては不満である。

最近は、みなさん、知的レベルが高くなったのか福沢諭吉や渋澤栄一などの「思想家」「経済人」などが躍進している。

平安時代や鎌倉時代からランクインしているのは義経ただ一人であり、源頼朝や平清盛なども入っていないので、中世では今でも「英雄第一」の人ではある。

 

私が思うに、

 

日本の歴史上、最も美しい男

 

が「義経」である。

「美しい」というのは「生き様」である。

確かに思慮は足りないかもしれないが、「華々しさ」という点では、義経以上の英雄はいない。

それだけにその悲劇性も深い。

〈夏草や…〉と詠んだ芭蕉も、その華々しさと悲劇性を愛したのである。

 

義経の人気はなぜ落ちたのだろうか。

やはり司馬遼太郎さんの影響だろうか。

司馬さんは、義経は世界史でもまれに見る「軍事的天才」だ、と高く評価している。

司馬さんは、「芸術の天才」は数十年に一人くらいはあらわれるものだが、「戦の天才」というのは各民族に一人出るかどうかという「希少」な才能なのだ、と言い、義経を高く評価している。

 

義経というのは、まったく史上まれに見る軍事的天才です。

軍事的才能というのはつまり、兵隊さんの才能ですけれど、これは人間の才能の中で一番希少なというか、少ない才能なんですね。

つまり一つの時代に、絵かきとか小説家という才能は何人も出てきますけれど、軍事的天才というのは、一つの民族の歴史の中で、二、三人も現れればいいほうであって…

ー『司馬遼太郎の日本史探訪』-

 

しかし、一方で批判もしている。

 

無名の人間が一朝にして有名になるということは、義経以前には、日本の社会にはなかった。

(略)そのときに義経の自己崩壊が始まるわけです。

ー『手掘り日本史』司馬遼太郎-

 

司馬さんは義経の兄・頼朝を高く評価しているので、その兄の苦労を知らない義経を「困った存在」と考えている。

そして義経を愛する日本人の気質に困惑している。

 

義経の困った点は、というより日本人の判官びいきの困った問題は、われわれ日本人が、頼朝の鎌倉政権が確立したおかげで、ちょっと人間らしい生活をもつことができた、という点を見ないことです。

頼朝のやったことは、日本史上最大の革命かもしれません。

頼朝こそ、律令制社会の矛盾から当時の日本人を救ってくれた革命の恩人なんです。

このことを見ずに、その邪魔者であった義経にだけ同情の涙をそそぐ。

あれだけの武功をたてた義経が没落していく、これがどうにも悲しい…。

ここに日本人のメロディーが始まるわけで、それでは困るんじゃないか、という気持がありました。

ー『手掘り日本史』司馬遼太郎-

 

ご存じかも知れないが「判官びいき」の「判官(ほうがん)」とは義経(源九郎判官義経)のことで、「判官びいき」というのはそもそも「義経びいき」ということなのだ。

上記の言葉を簡単に解説すると、頼朝によって「貴族政治」は終わった。

貴族政治とは「皇族や貴族の為の政治」であり、それ以外、武士や農民などはそれまで「人間」として扱われていなかった。

 

頼朝を頂点とする「武士」が天下を取ったからこそ、庶民の政治や歴史上の平等へとつながった、というわけである。

もし頼朝がいなかったら、永遠に貴族政治であったなら、例えば「元寇」そして「幕末の西欧による植民地化」にこの国は堪えられたかどうか…。

実際、貴族政治であった中国や朝鮮の近代の歴史を見れば想像出来る。

日本全体の軍事力を引き揚げ、庶民の教養を高めたわけであり、元寇を退けたり、幕末の西欧による植民地化を避けられたのは、頼朝の間接的な功績は大きいのである、

そういう意味で頼朝の成し遂げたことは日本史上最高の偉業かもしれない、というのである。

その頼朝の苦労を知らず、京都でちやほやされ、自由奔放に振る舞った義経に司馬さんは失望しているわけである。

 

ただ…、いずれにしても…、義経が京都で思慮深くおとなしくしていたとしても、義経は頼朝によって「抹殺」されていただろう。

武家政権を始めるに当たり、義経に居場所はなかったし、むしろ邪魔者でしかなかっただろう。

彼は「武将」であって、頼朝のような「政治家」ではなかったし、自分の息子に将軍を継がせようと考えていた頼朝にとって義経は「脅威」でしかなかっただろう。

まして義経は京都(朝廷)、特に後白河法皇によって「政争の具」に使われようとしていた。

義経に力を持たせ、頼朝と張り合わせようとしていたのだ。

頼朝の冷酷さを嫌う人もいるが、あの時代、同族の殺し合いは「普通」のことだった。

保元の乱平治の乱を見ればわかる。

 

しかし、一方で、義経という武将がいなかったら、頼朝の天下になっていたかどうか。

平家の力も依然として強かったし、木曽義仲もいた。

それらをことごとく、しかも早急に撃破したのは義経である。

頼朝が戦が上手い、とは思えないし、もともと烏合の衆である坂東武者を組織的に動かす義経のような武将がいなかったら、頼朝の天下になっていたかどうかはあやしい。

 

思うに、頼朝は「政治家」で「その後の時代」を見つめていたが、義経は「武将」で、「父を殺し、母を奪った平家を滅ぼす」ことのみに生きた男だった。

思慮が足りなかったことは間違いないが、美しさでいえば、

 

義経こそ日本の歴史上一番美しい

 

のだ、と私は思う。

 

ドラマ「鎌倉殿の13人」で、義経が都落ちをする時、北条時政が、

 

まるで平家を滅ぼす為だけに生れて来たようなお人じゃ

 

と言っていたが、本当にその通りだと思う。

日本史の中の最も大きく美しい「彗星」と言っていい。

頼朝の「偉大さ」を認めつつ、義経の「華」を慕う…、これが一番いい歴史の見方だ、と私は考える。

 

義経が下がり、福沢諭吉や渋澤栄一が上がっているのは、日本人は浪漫より実利を優先する傾向を表しているのかもしれない。

それが私にはなんとなくつまらない。

 

 

 

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