(神奈川県横須賀市長沢)

 

どこかの土地を踏むとする。

その場合今の私どもならまず自分の目で見、自分の耳で聴き、全身で体験して何かをとらえようとするであろう。

しかし、芭蕉の場合はその点はいささか違う。

ー加藤楸邨「もうひとつのみちのく」—

 

 

いつの間にか海辺の合歓の花が盛りとなっていた。

最近の猛暑は耐えがたく、1週間ほど前に熱中症になったので、今日は日中は仕事をしたり、用事をこなしたりして過ごし、17時から散歩兼買い物へ出かけた。

 

すでに殺人的な暑さは収まり、夕涼さえ感じたが、10分くらいすればやはり汗がどんどん出てくる。

 

「合歓の花」というと、芭蕉「奥の細道」での秋田象潟の吟、〈象潟や雨に西施が合歓の花〉がまず思い浮かぶ。

が、今日のような晴天続きの青空に咲く合歓の趣は、芭蕉の詠んだ風情とはやや違って見えた。

 

さて、先日、加藤楸邨のエッセイ「もうひとつのみちのく」で東山魁夷の言葉を紹介した。

 

 

今回は加藤楸邨の言葉を紹介したい。

われわれは旅の美しい風景、なにげない風景を見て、聞いて、全身で感じて一句を得ようとするわけだが、芭蕉の句作の方法はわれわれとは違う、と楸邨は指摘する。

楸邨は「奥の細道」での福島県白河の関を例に上げ、

 

芭蕉はその土地の歴史や風土が先人たちにどのように受け容れたかを確かめようとしている。

 

と述べている。

 

まさしく、これが現代俳人と芭蕉との大きな違いなのである。

芭蕉はあくまで自分の印象よりも「古人の世界と重ね合わせ」ることを句作の最優先としている。

このことは私も以前から大いに感じていたし、芭蕉のその手法を現代俳句にも生かせないか、と考えている。

もちろんそのためには大いに古典…、先人たちの作品や詩歌を勉強しなければならないのだが…。

 

自分が詠むより前に、歌枕として他に知られたその風土のあわれを、古人の心に入り立って確かめようとするわけである。

人の心にまず入り立って確かめてから自分の世界を模索しようする重層的な態度は、現代の一句一句の発想法とはちがった、連句的なゆき方であるということがはっきりするであろう。

 

この文章には二つポイントがある。

まず一つは、芭蕉の俳句には「先人の思い」と「自分の思い」が「重層」的に重なっている、ということ。

もう一つは、この「重層」は「連句的な方法」である、ということ。

 

私が思うに、現代俳句はなぜ魅力がないのか?

それは句にことごとく「重層性」がなく、「自我」に執した「単層」的構造になっているからではないか。

簡単に言えば、自我に固執し、自己の思い、自己の感性の鋭さ、表現の斬新さばかりを声高に主張しているからではないか。

「俺が、俺が」という表現はどこか薄っぺらで、むなしい。

そのような句は芭蕉俳句の重層的豊かさの前ではたちどころに色褪せてしまう。

 

自我や個性というものは近現代に於いて最重要視されて来た文学性ではある。

芭蕉のやり方はある意味、没個性とも言える。

しかし、自我に執することは世界が狭いとも言える。

今の俳句はその狭い世界に陥った、と言える。

自己の世界もそれなりの大きさはあるが、自他の世界はどこまでも大きく広い。

このことは何度も書いている。

 

 

 

私は芭蕉の俳句には「自他(自分と他の人)の境がない」と書いたが、楸邨は、芭蕉の俳句には「先人の思い」と「自己の思い」の重層性があり、それが詩情を豊かにしている、と指摘している。

 

こういう俳句を作りたいし、復活させたいものである。

そろそろ俳人、そして日本人全体も「近代自我」を内におさめ、「自他の境」を自在に出入り出来るような大きな詩境を手にしたいものだ。

 

それは技法というよりは、「生き方」に大きく関わって来る問題なのである。

芭蕉が「俳句の師」だけでなく「人生の師」でもある所以である。

 

 

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