黴の中言葉となればもう古し

(かびのなか ことばとなれば もうふるし)

加藤楸邨

 

 

今日は東京都大田区大森の「新山王句会」。

欠席者が多かったが、句会のあとは大森ラズ内にある中華料理店「青蓮」で、有志の暑気払い。

 

 

 

 

 

食事の席で、石丸伸二さんの話になり、あることないことを叩きまくる日本人はどうしてこうも小さくなったのか…、という話になったが、戦後の加藤楸邨の話になり、みんなで寄ってたかって叩くのは今に始まったことではなく、昔からの日本人の悪習だ、という話になった。

 

楸邨は戦後、戦争協力者というレッテルを貼られ、ずいぶん苦しんだようだ。

しかも、それが楸邨には不本意なことなので、余計つらかっただろう。

当時、楸邨の弟子には陸軍大本営参謀・秋山牧車の他、有力な軍人が何人かいた。

戦時中、そのせいもあって楸邨は軍部に優遇され、大陸に使節として派遣されたり、紙不足の為、俳誌では政府命令による統廃合がすすめられたが、それを免れたり、軍部から紙を支給してもらった、というのだ。

 

しかし、事実は違う。

確かに俳誌の統廃合の気運があったが、それは戦時下の紙不足によるもので、統廃合なれたのは(はっきりいえば…)あまり力のない俳誌ばかりである。

しかも、政府が推奨した可能性はあるようだが、命令ではない。

 

紙の調達が出来た楸邨の俳誌「寒雷」にはどこかと統合する必要はなかったのである。

また、紙の調達を軍人である弟子が軍から調達したというのも真実かどうかはわからない。

たとえ真実だとしても、別にただでもらったわけではないようだから、特別問題はない。

 

しかし、これらはやはり「楸邨および「寒雷」は大物軍人がいたから優遇された」と思われ、「楸邨は戦争協力者」と飛躍していったのだ。

そして中村草田男を筆頭に多方面から叩かれることになったのである。

 

しかし、それでも楸邨が「パージ」されず、その後、俳壇の中心人物の一人となって活躍した事実を考えれば、楸邨の俳句の実力を認められており、「戦争協力者」という事実を認められなかったからだろう。

 

草田男には戦中の軍部の横暴への怒りがったのかもしれないが、それに同調し、楸邨を叩いた人間はほぼ「やっかみ」と言っていい。

日本人で昔から変わらないんだな~、と思うし、戦後の異常な時代であったとはいえ、自分の事は置いといて人を叩くのが大好きな国民なんだな~、と思う。

このへんはいやな国民だな~、と思う。

 

 

 

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