(福井県敦賀市金ヶ崎)
月いつこ鐘は沈るうみのそこ
(つきいずこ かねはしずまる うみのそこ)
松尾芭蕉
金ヶ崎(かねがさき)は南北朝時代の新田義貞の居城があり、戦国時代、織田信長が越前・朝倉義景軍と近江・浅井長政軍に挟み撃ちに遭い、命からがら逃げだした伝説の地であり、芭蕉が訪問した地であり、さまざまな歴史の舞台となったところである。
この時、徳川家康も織田の同盟軍として参戦していた。
その時、家康は退去の殿(しんがり)を任された。
任されたのか、志願したのか、押し付けられたのかはよくわからない。
敦賀は「家康推し」なのだろうか。
信長の事には触れず、「徳川家康難関突破の地」という横断幕があちこちで貼られていた。
(松尾芭蕉鐘塚)
ここを訪れた芭蕉は上記の句を詠んでいる。
この句には以下のような背景がある。
【沈鐘伝説】
南北朝時代の延元元年(1336年)、新田義貞らの南朝軍は、後醍醐天皇の皇子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。
しかし、足利軍との戦いに破れ、義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。
のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭(梁に吊るすために釣鐘の頭部に設けた竜の頭の形にしたもの)が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかった。
ー金ヶ崎HPよりー
芭蕉は、宿のあるじからこの伝説を聞き、この句を詠んだ。
「月いつこ」(月はどこ?)というのは、その日は名月だったが、雨天で見えなかったからだ。
ところで、ここは「信長」「家康」の撤退戦の舞台だが、実際歩いてみると、
信長や家康がなぜ焦ったか?
というのが実感としてわかる。
福井市と敦賀市に大きな「山塊」がある。
そのことは以前書いた。
ここはその大山塊の西端なのである。
織田・徳川軍はその大山塊を越えてやってくる朝倉軍を待ち受けていたわけだが、その背後を浅井軍に突かれることになった。
この難関を突破する方法は二つ。
大山塊に侵入し、朝倉軍を撃破する。
しかし、常に背後を浅井軍に突かれるわけだ。
平野と違って、一気に朝倉軍を撃破は出来ないから、この方法は絶望的。
次に南下し、浅井軍を一気に撃破する。
これも浅井軍は挟み撃ちするつもりだから、のらりくらりと…、あるいは守りに専念していれば、背後を朝倉軍が突いてくれる。
これも絶望的。
やっかいなのはこの大山塊で、織田軍は逃げ場がないわけだ。
西へ逃げて、小浜(福井県)、舞鶴(京都)方面へ逃げる方法もあるが、そうであれば家康は三河に帰れなくなるし、信長は京都に帰れなくなる。
やはり北上する浅井軍とは違うルートを南下し、京都へ帰るしかないのだ。
こうして実際歩いてみると、歴史が「実感」として伝わって来る。