(東京都立川市)

 

【原 文】

宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、
 二日にもぬかりはせじな花の春
  初  春
 春立(たち)てまだ九日の野山哉
 枯芝ややゝかげろふの一ニ寸


【意 訳】
大晦日の晩は、一年の最後の空を惜しもうと、酒を飲み、夜更かしをして、元日の朝は寝坊してしまい、
 二日にもぬかりはせじな花の春
  初春
 春立てまだ九日の野山哉
 枯芝ややゝかげろふの一ニ寸

ー松尾芭蕉『笈の小文』ー

 

『おくのほそ道』が芭蕉が心血を注いで、練りに練った作品であるのに、その1年前の旅である『笈の小文』の記述には日記のような気安さがある。

 

中でも、故郷・伊賀での正月風景はとても心休まるものがある。

作品は「名句」と言えるものではないが、芭蕉のリラックスした気分が横溢していて、読んでいて気分がいい。

 

二日にもぬかりはせじな花の春

 

の句は、大晦日の晩、今年最後の夜空、星空を見ようと思い、酒を飲み、夜更かしをしてしまい、ついつい寝坊してしまった、というのだ。

こういうリラックス…、というか、間の抜けた場面は『おくのほそ道』にはない・

これも故郷での正月ならではだろう。

「一日」はしくじってしまったので、「二日」はぬかりなくやろう、と言っている。

何をしくじったり、抜かりなくやろうとしているのだろうか。

季語「花の春」とは「新年」の季語で、


1) 花の咲く春。
2) 新年、新春。

 

という意味。

おそらく「花咲く新春をぬかりなく愛でよう」という意味であろう。

朝起きて、おせちをいただいて、咲き始めた梅などを愛でつつ、初詣にでも行く、というものだろうか。

つまり、簡単に言えば「正月らしく過ごそう」というものだろう。

 

また、『若水』という文章には、この句には「前書き」があり、

 

そらの名残おしまんと、旧友の来りて酒興じけるに、元日のひるまでふし、明ぼのみはづして

(今年最後の空を惜しもうと、古い友人が来て、酒を酌み交わしてしまい、元日の昼まで寝て、日の出を見逃して)

 

と書いている。

そうなると「二日」は「日の出」をぬかりなく見ようと考えたのかもしれない。

 

他に、

 

春立てまだ九日の野山哉

(はるたちて まだここのかの のやまかな)

 

だが、この年の立春は「1月4日」。

なので、この句は「1月13日」に詠んだものだろう。

「まだ」とあるから、「野山」には「立春」の華やぎが残っている、ということだろうか。


枯芝ややゝかげろふの一ニ寸

(かれしばや ややかげろうの いちにすん)

 

この場合の「やや」は「ようやく」という意味。

「枯芝」は冬の季語で、「かげろう」(陽炎)は春の季語。

 

芝はまだ枯れ切っているが、春は着実にやって来ていて、芝の上にはわずかながら陽炎が立っているよ。

 

という意味。

僅かながらもやって来ている「春」を感じ、喜んでいる芭蕉の姿が想像出来る。

 

以前、芭蕉は「暑い」時でも「涼しさ」を探している、ということを書いた。

 

 

たとえ暑くても、その中に「涼」を求める…、これが「風雅の心」というものではないか。

寒くとも、確実に訪れている「春」を感じ、それを言祝ぐのである。

 

名品ではないが、これらの句には悠々とした「風雅」がある。

こういう芭蕉の姿勢があるからこそ、名作が生まれたのであろう。

 

 

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