(神奈川県横須賀市長沢)

 

 

NHK大河ドラマの「光る君へ」を毎回見ている。

前前作の「鎌倉殿の13人」ほど熱心には見ていないが、まあまあ面白い。

 

ただ、(どうでもいいことだが…)不満もある。

ドラマでは、「紫式部」は幼少期、母親を藤原道長の兄に殺されてしまう。

これが紫式部の人間形成に深い影響を与えた、という設定になっている。

しかし、これは完全に「創作」で、そのような事実は確認出来ない。

…ということは、ドラマで描いている紫式部の人間像がそもそも全く根拠がない。

「ドラマだからいいではないか」と言われそうだが、少なくとも私は「大河ドラマ」には「歴史的史実」に基づいたドラマであって欲しい。

「へ~、こんなことがあったのか~。」「だから〇〇はこういう行動を取ったんだ~。」など歴史的教養・知識を得る場であって欲しい、と思うので、あの何の根拠もないシーンはいただけない。

もちろん創作はあっていい。

しかし、この創作はやり過ぎだ、と思う。

まあ、それはいい(笑)。

 

「清少納言」の「少納言」のことである。

われわれ(僕だけ…?)は「せいしょうなごん」と一気に読んでしまうが、本来は「清  少納言」「せい しょうなごん」と読む。

「清」は「清原」という姓である。
「大納言」「中納言」と言えば朝廷の重役であるから、「少納言」もそれに次ぐ立派な官職だったのだろうか。

「少納言」は「大臣(太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣)、大納言、中納言、参議」の下で「実務」を行う職であったようだ。

大臣などが「政治方針」を決め、その具体的な実務を行うのが、「少納言」である。

「従五位の下」の官位の者が付く役職のようだ。

「三位」以上が「雲上人」であるから、「従五位の下」は貴族の中ではそれほど大した官位ではない。

かろうじて「貴族」、という立場である。

 

もう一つ疑問がある。

当時、女性がそういう役職に就けたのだろうか、というものだ。

調べてみると、女房(宮仕えの女性)が「少納言」などの官職を名乗る場合、父親や近親者がその役職であることが多いそうだ。

「清少納言」は父あるいは近親者が「少納言」であった、という可能性が高く、そのことから「清少納言」という名になった。

ただ、今のところ、近親者が「少納言」だった、という事実は確認されておらず、結局のところ、「なんで『少納言』というのか、よくわからない」というのが結論のようだ。

 

「清原氏」はもともと皇族で、「臣籍降下」(皇族が皇族の地位を離れ、貴族などになり、天皇の臣下となること)した際に送られた「姓」で、略称を「清氏(せいし)」と呼ばれた。

平安時代後期の東北の反乱「前九年の役」「後三年の役」で、一時期、東北の覇者だったのが「清原氏」で、「清原氏」は時折、歴史の表舞台に登場する。

清少納言の父は、清原元輔(きよはらのもとすけ)と言い「三十六歌仙」(つまり和歌の名人ということ)の一人。
ちなみに元輔の最高位は「従五位上」、「少納言」の官職に就いていたという事実は確認出来ていない。

「百人一首」には、

 

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
(ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは)

 

〈意訳〉

かたく約束を交わしましたね。

互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波があの末の松山を決して越すことがないように、二人の仲も決して変わることはないようにと…。
 

という元輔の和歌が載っている。

「末の松山」は宮城県多賀城近くの歌枕で、「おくのほそ道」で芭蕉が訪れている。

「末の松山」についてはこちらを見ていただきたい。

 

 

「末の松山」は「決して変わることない愛の契り」という意味を持って詠われた。

 

あともう一つ疑問…・

「大納言」「中納言」と来たら「小納言」になると思うのだが、なんで「少納言」なんだろう?

 

 

 

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