(東京都日野市 JR日野駅前)

 

 

須磨の秋といえば、『源氏物語』のいにしえから、寂しいものと相場が決まっている。

尾形仂(角川『おくのほそ道』「発句評釈」)

 

 

この文章は、松尾芭蕉の『おくのほそ道』(種(いろ)の浜)での句、

 

寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

 

の解説。

 

芭蕉は「寂しさ」を「美」…、いや、「最上の美」と捉えていたようである。

種の浜の寂しさを讃え、天下の名勝と言っていい、「須磨」よりも美しい、と言っているのだ。

実際そうなのか、本当に芭蕉がそう思っていたかは大きな問題ではない。

芭蕉は「最上の言葉」を以て種の浜の寂寥たる美しさを讃えようとしたのだ。

その為の喩えとして「須磨」を出したのであろう。

この「種の浜」(福井県敦賀市)の「寂しき美しさ」は、須磨よりも優れている、と言っているのである。


そして尾形氏は、その「須磨」というところは『源氏物語』ゆかりの「美しく、寂しき場所」なのだ、と言っている。

「須磨」は『源氏物語』で光源氏が、政争に巻き込まれて失意の日々を送った、「流寓の地」なのである。

 

「南風」(村上鞆彦主宰)4月号の「俳句深耕」というエッセイで今井豊さんが「歌枕・明石」という文章を寄せている。

 

『源氏物語』で、なぜ、光源氏が須磨に蟄居し、明石に移り住むことになるのか。

紫式部の中では、どうしても「須磨」「明石」でなければならない理由があった。

 

今井氏はその理由として、光源氏のモデルの一人のされる在原行平が須磨に蟄居していたから、と推測している。

で、なぜ、在原行平は須磨に蟄居したのか?

今井氏は、

 

諸説有るが、「須磨」の語源は「隅」だとされる。

摂津国の隅から転じて「須磨」となったと言うものである。

「須磨」「明石」はかろうじて畿内の範囲。

そこより西に行くともう都の人々には想像も出来ない「鄙」の世界。

戻ってこれない異界なのである。

光源氏が都に戻って復活する為には舞台は「須磨」「明石」でなければならなかったのである。

 

と書き、そこから松尾芭蕉へと思いを馳せている。

芭蕉は『笈の小文』で関西を旅しているが、最西方が「須磨」「明石」である。

ふたたび今井氏の文章を引用する。

 

生涯に幾多の旅をした芭蕉が日本列島で行った最も西の地が明石である。

つまり、芭蕉は明石より西には足を踏み入れていない。

 

芭蕉は畿内というか、「都」の限界である「須磨」「明石」より西には関心がなかった、と言ってもいいのではないか。

芭蕉はその翌年、「おくのほそ道」の旅、東北を旅するが、訪ねたところはほぼ「歌枕」である。

芭蕉は常に「古典文学」の中にいる。

行動でさえも「古典」を意識している。

芭蕉の旅も、古典の範囲を超えてはならなかったのである。

こういう制約は窮屈ではあるが、美意識が凝縮されるというよさもある。

 

われわれにはこういう「美意識」はない。

とうの昔に失ってしまった、と言っていい。

こうやって考えると「古典の世界」は深い。

面白い話を読ませてもらった。

 

 

 

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