(「渋柿」2024年4月号) 

 

 

山桜雪嶺天に声もなし

(やまざくら せつれいてんに こえもなし)

水原秋桜子

 

 

俳句雑誌「渋柿」(安原谿游主宰)を毎号、送っていただいている。

「巻頭言」では安原主宰が「水原秋桜子と『渋柿』」という文章を連載している。

 

「渋柿」は松根東洋城が創刊。

今号で通巻1320号、正岡子規、高浜虚子の俳句雑誌「ホトトギス」と同じくらいの歴史を誇っている。

東洋城の主張は「芭蕉に帰れ」というもので、「ホトトギス」以上に保守的な俳句を標榜している…、と言っていい。

一方、秋桜子(1892~1981)は昭和初期、所属していた「ホトトギス」を脱退し、「反ホトトギス」「反花鳥諷詠」を旗印に「新興俳句のリーダー」として、現代俳句に大きな影響を与えた。

秋桜子は「ホトトギス」所属以前に、松根東洋城の下で俳句を習っていた、というのは聞いたことがあるが、安原さんの巻頭言ではそのことについてくわしく書かれていた。

 

秋桜子は東大医学部卒業後、血清化学研究室に籍を置いていた。

その時、仲間に誘われ医学部卒業生の句会「木の芽句会」に参加した。

その中心メンバーが「渋柿」所属の南仙臥だった縁で指導に当たったのが「渋柿」の野村喜舟(のむら・きしゅう)であった。

大正9年(1919)のことであり、秋桜子27歳、喜舟は33歳で、「渋柿」創刊3年目のことである。

野村喜舟は東洋城の右腕とも言うべき存在で、東洋城のあとの「渋柿」主宰を継承している。

「木の芽句会」はその後、東洋城も出席し、指導をするようになった。

 

さて、秋桜子はなぜ「渋柿」を離れ「ホトトギス」へ移ったのか。

安原主宰によれば、秋桜子はその頃から「ホトトギス」も愛読していたようで、「渋柿」の俳句に飽き足らず、「ホトトギス」へ傾倒しつつあったのである。

以下、安原氏の文章を引用する。

 

「ホトトギス」の持つ写生から発する自然の息吹の美しさ、特に原石鼎(はら・せきてい)の自然への深奥の美に向けたするどい眼や奔放な表現に惹かれていきました。

 

参考までに、原石鼎の作品を列記しておく。

 

頂上や殊に野菊の吹かれ居り
寝ころべば見ゆる月ある大暑かな
秋風や模様のちがふ皿二つ
磯鷲はかならず巌にとまりけり
巌苔をむしり遊ぶや瀞の鮎
夕月に七月の蝶のぼりけり
山の色釣り上げし鮎に動くかな
日にとんで翼うれしき雀の子


なるほど、これらの作品には溌剌とした「自然の息吹」が宿っており、秋桜子の「美意識」と相通じるものがある。

 

そして秋桜子は「渋柿」のどのような点に不満を覚えていたのだろうか。

秋桜子は、

 

「尾崎迷堂や野村喜舟等に渋柿俳句の魅力を覚える一方で、取材の狭さと表現上に共通の癖が見えた。」

「自分は伸び伸びと俳句を修行し自分に独特のものが発芽するのを待っていたかったが、『渋柿』では最初からある限局された句の世界に押し込むところがあり、これを息苦しく感じた。」

「東洋城の純粋一徹な人柄が信じられるだけに『ホトトギス』に傾く自分の心悲しんだ。」

 

と秋桜子は記している。

「取材の狭さ」とは句材が狭く、限定的ということであろう。

「表現上に共通の癖」がる、と書いているので、まとめてみれば、

 

俳句がパターン化している。

 

ということであろう。

 

また、東洋城の俳句指導は深夜…、場合によっては、朝まで続くことがあった。

既に妻帯者であり医学研究者であった秋桜子には時間的も体力的にもきつかったのではないか、と安原氏は指摘している。

秋桜子は仲間と相談し「木の芽句会」の解散を決定した。

こうして秋桜子と「渋柿」との縁は切れた。

 

こうして秋桜子は「渋柿」から「ホトトギス」へと移り、気鋭の俳人として活躍してゆくことになる。

東洋城は果たして秋桜子の才能に気づいていたのかどうか。

やはり秋桜子の才能を見抜き、開花させたのは「ホトトギス」であり、高浜虚子である。

秋桜子の感覚は鋭く、正しかった、と言える。

 

この「巻頭言」は更に続き、次号ではその後の「秋桜子」と「渋柿」との関係に触れるそうである。

次号も楽しみだ。

 

 

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