(信州柏原(長野県しなの町) 一茶生家跡) 

 

 

けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ

(きょうからは にほんのかりぞ らくにねよ)

小林一茶

 

 

この句に初めて出会ったのは30歳くらいの頃。

当時所属していた「河」の仲間と、信州柏原の小林一茶記念館を訪れた時に知った。

当時、ものすごく感動した。

凄い句だ。

「雁」を自分の友達や子供のように見て、呼びかけている。

なかなか出来ることではない。

これが一茶の凄いところなのだな~、と思ったのだ。

 

晩秋、北方から渡来して来た「雁」の群れが高々と空を飛んでいる。

疲れただろう、もうここは俺のふるさと、日本だ。

しばらくはここでゆっくりし、今夜はゆっくり寝ろよ…と呼び掛けている。

 

しかし、最近、これにはもう一つの「思い」があることを知った。

小林一茶は1763年から1828年の人。

この時期は「幕末」の一歩手前で、外国船の進出が相次いだ時代であった。

とりわけ「ロシア」が不穏な動きを見せていた。

 

ロシアと日本が初めて接触を持ったのは「1778年」。

ラッコ捕獲業者・オチエレデンが北海道根室に上陸、日本に「交易」を求めたが、鎖国政策を敷いていた幕府(正確には松前藩)は断った。

「1792年」にはロシア皇帝・エカテリーナ2世の国書を携えたラックスマンが今度は軍艦で根室に来た。

しかし、やはり幕府は断った。

断られたロシアは千島列島の一つ、ウルップ島に開拓民を送り込み、基地を建設し、両国間に緊張が高まった。

当時、日本にとって「千島列島」は日本の領土という意識はあっただろうが、両国間で正式な国境は定まっていなかったから、ロシアの行動は必ずしも「横暴」とは言い切れないだろう。

しかし、日本にとっては大きな脅威であったに違いない。

基地建設の際、ロシアは島民に苛烈な襲撃をも行っている。

「1799年」には北方領土を直接統治にした。

「1801年」には南部・盛岡藩の兵隊100人ほどが北方領土守備として派遣されている。

そういう時代が一茶の時代であり、そういう不穏な話題が一茶たち庶民にも耳に入っていた、と考えていいいだろう。

当時は「外国人」を怖れた時代であった。

庶民からすれば「外国人」は勝手に日本にやって来て脅しをかける「鬼」のような恐ろしい存在だったに違いない。

 

さて、それを踏まえ、〈けふからは〉の句に戻る。

「雁」はロシア(正確にはシベリア)から渡って来たのである。

あの恐ろしい「ロシア」からだ。

 

おうおう、大変だっただろう。

あんな恐ろしい国からよくやって来たな。

さあ、、もう安心だ。

ここはオイらの故郷、平和で優しい国・日本だ。

今日からお前たちは日本の雁だ、枕を高くして寝るがいい。

 

という解釈が成り立つのだそうだ。

俳句は文学なのだから、当然、「時代」を繁栄させていい。

いや「文学」は「時代を語るもの」であってもいい。

俳句にそれが薄いのは美徳でもあるが弱点でもある。

 

なお、この句は故郷・柏原で詠んだという人もあるが、青森・外が浜で詠んだもの、という人もいる。

私見だが、上記(従来)の鑑賞であれば柏原が似合うし、下記の鑑賞であれば外ヶ浜が似合う。

調べればいいのだが、今は時間がない。

 

 

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