故郷やどちらを見ても山笑ふ

(ふるさとや どちらをみても やまわらう)

正岡子規

 

 

今日は荻窪の「青丹会」。

今日は「季語」の省略、変形、応用の問題について話をした。

 

例えば「山笑ふ」という春の季語がある。

この季語は中国(北宋)の山水画の大家・郭煕(かくき)由来の季語で、

 

春山淡冶にして笑ふが如く

夏山蒼翠とし滴るるが如く

秋山明浄にして粧ふが如く

冬山惨淡として眠るが如し 

 

という漢文から生まれた。

ちなみに「山滴る」は夏の、「山粧(よそお)ふ」は秋の、「山眠る」は冬の季語である。

 

一部の俳人は、これらの季語は「季語表記のまま」使うべき、という意見がある。

どういうことかというと、あくまで「山笑ふ」という形は崩してはならず、

 

笑ふ山

山の笑ひけり

 

などのように応用というか、変形して表現してはいけないという意見だ。

また、

 

富士山のきらきらきらと笑ひけり

 

などのように「分解」(「山」と「笑ふ」を離して表現している)などは尚ダメだ、という意見である。

これについては私は反対である。

もともと「山笑ふ」だって「春山淡冶にして笑ふが如く」を省略した言葉、つまり略語ではないか。

しかし、こればっかりは各自の考えであるから、どちらが正しいというものはない。

自分で判断するしかないし、出来れば「山笑ふ」という原型で表現出来ないか、まず考え、それでも変形、応用、分解して表現したほうがいい、表現したい、と思えばそうしたらいい、と話した。

 

また、「魚(うお)氷(ひ)に上(のぼ)る」という春の季語がある。

中国の「七十二候」の一つで、二月の中旬頃の季語だ。

暖かさで氷が割れ、氷の下で泳いでいた魚が氷の上にあがること、をいう。

ほんまかいな???、という気もするが(笑)、そういう季語がある。

 

魚は氷に上るも湖の氷らざり

松崎鉄之介 

 

この季語は表記を「省略」して、「魚は氷に」と表現する場合もある。

 

魚は氷に音たてて噛む薄荷飴

角谷昌子

 

これも省略はいけない、ちゃんと「上る」をいれろ、という意見がある。

同様の問題を持つ季語に、

 

蛇穴を出る(蛇穴を)…春

蛇穴に入る(蛇穴に)…秋

龍天に登る(龍天に)…春

龍淵に潜む(龍淵に)…秋


などがある。

これも結局は各自の考えでやるしかない。

しかし、省略せずに済めばそのほうがいいだろう、私は省略してもいいと考えていて、省略はバンバンやっているが…、と話した。

 

これには根拠がある。

例えば、秋の季語に、

 

雀(すずめ)大水(うみ)に入(い)り蛤(はまぐり)と為(な)る

 

というやたら長い季語がある。

これも中国の「七十二候」の一つで、十月中旬くらいの陽気を指す。

この時期に雀は海に深く潜り、蛤になる、というのだ。

これもほんまかいな??? と思うがそれは置いておこう。

「省略してはいけない」と言っている俳人は、これも省略しないで使え、というのだろうか。

 

蛤に雀の斑ありあはれかな

村上鬼城

雀蛤に化すてふ酒は涙にぞ

林 翔

雀化して蛤となる泥けむり

津川絵里子

 

大家や現代の気鋭俳人もみんな「変形」「省略」して使っている。

いろいろ歳時記やネットで探したが、「原型」のまま詠んでいる句は見つからなかった。

 

季語を変形、応用、省略して表現するのは別に悪くない、と私は考えている。

みんながやっているからいい、というのは短絡的だが、「雀蛤に」の季語を原型のまま使うのは無理であるから、省略していい。「雀蛤に」は省略、変形して使っているのだから、他の季語はダメという論理は成り立たない、と私は結論付ける…、まあ、そういう話をした。

 

何度も書くが、原型のまま表現するという考えの人もいていいとは思う。

結局は自分はどうするか、ということを考えて欲しい、と話した。

俳句にルールブックはなく、俳句は自己表現なのだから、自分の考えでやっていい。

逆に言うと、ルールブックがないからこそ、各自が自分のルールブックというか基準をしっかり考えるべきだと私は思う。

 

 

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