(岩手旅行の時の盛岡市高松の池)
日盛りの海しづかなり火焔土器
(ひざかりの うみしずかなり かえんどき)
角川春樹
今日は高円寺の「コングレ俳句会」。
欠席者もいて、人数は少なかったが、和気あいあいと過ごした。
初心者の方が多いので、俳句の素朴な疑問を質問される。
私は「俳句の素朴な疑問」に答えるのが大好き(笑)。
俳句の本質に関わる問題だからだ。
「三段切れ」や「季重なり」の問題など、講義時間をオーバーして喋ってしまった。
とはいえ、まだ出来たばかりなのもあるが、この人数ではちょっと寂しい。
今週から杉並区内の「ゆうゆう館」に募集チラシを置いてもらえるようになったそうだが、少しは認知度が上がって、参加者が増えてほしいな~。
民間が運営しているカルチャーなので、杉並区民でなくても参加できるので、興味のある方はぜひご参加いただきたい。
(※最下部ご参照)
句会のあとはみんなでお茶をして、いろいろとおしゃべりをする。
これも楽しい。
今日は女性の方から終戦直後の大陸引き上げの貴重な(壮絶な?)話を聞いた。
彼女のお話を聞くと、高度経済成長期に生まれ、バブル絶頂期に青春を迎えた僕の人生など、実に軽く薄く思えてくる。
まあ、しかし、苦労や悲しみなどというものはなければないほうが幸福だ。
僕の軽薄ながらも幸福な人生は、先輩たちのご苦労の上に成り立っているのだな~、と改めて思った。
そのあとは有志でお寿司を食べに行った。
実においしかったな~、いい店を見つけた。
講義では「取り合せ」、特に「モンタージュ手法」についての話をした。
これは先日、北野武監督のインタビューで監督が話していたのを聞いてふとひらめいたのだ。
北野監督が言うには、
1の映像 裏通りを歩いている男の拳銃のアップ
2の映像 A氏の死体
3の映像 ふたたび裏通りを歩いている男の拳銃のアップ
4の映像 B氏の死体
5の映像 みたび裏通りを歩いている男の拳銃のアップ
6の映像 C氏の死体
これによって「男」が「3人を殺した」ことが表現出来る…というものだ。
これが「モンタージュ手法」。
この「モンタージュ手法」の良さは、
説明を省くことが出来る
ということだ。
A氏、B氏、C氏それぞれの殺害場面をいちいち映像にしなくて済むわけだ。
時間短縮にもある。
これは、文字数の少ない「俳句表現」に於いても実に「有効」なわけである。
俳句がもっとも嫌うのは「説明」であり「報告」だ。
さらにこの手法の良さは、
鑑賞者の想像力を膨らますことが出来る
ことだ。
「殺害場面」を映像にしなくても、鑑賞者がそれを想像してくれるのだ。
これは俳句の「余情」に匹敵する。
俳句で語られているのは「17文字」だが、それはあくまで「一事象」「一場面」であり、作者が本当に訴えたい、伝えたい感動や感情はその奥にある。
俳句も「鑑賞者の想像力」なしには成立しない文学と言っていい。
〈古池や蛙飛び込む水の音〉がその好例で、提示されているのは「一風景」であり、作者の真意は句の奥底に隠れている。
上記の場面を俳句にすると、
裏通りのピストルABCの死体
とか、
裏通りを行くピストル三人の死
という感じになるだろう。
実に下手くそで、季語もないが、それは置いといて、作者が表現したい「殺人者の狂気」が奥底に秘められているわけだ。
こういう例もある。
1の映像 戦車の行進
2の映像 群衆の中で若い女性が笑顔で手を振っている
こういう場合、例えば、
自国が勝利した、その兵士の中に若い女性の恋人もいる。
ということが想像出来る。
一方、こういう例はどうか。
1の映像 戦車の行進
2の映像 群衆の中で中年女性が泣いている。
こういう場合、こんな解釈が出来る。
敵国の軍隊が侵入し、自国が占領された。
女性の息子は戦死した。
つまり、何を「取り合わせるか」で「全く違う物語」を表現することが出来る。
これが「モンタージュ手法」だ。
で、掲句。
上記の手法で表現すると、
1の映像 ぎらぎらしながら静かに横たわっている海原
2の映像 縄文の火焔土器
ということになる。
これによって、「海の原初のエネルギー」と「縄文のエネルギー」とが一句の中でぶつかり合う。
一句全体にエネルギッシュな「力」が生まれている。
この句をこまかく説明するには、私の技量では不可能だが、「海」や「人間」が持っている「野生のエネルギー」や、それに敬意を払い、それを追い求めている春樹さんの生き様が見えてくる。
一切の説明や報告を省き、「もの」と「もの」をぶつける。
この句には「火花」が生まれている。
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