(東京都杉並区荻窪 大田黒公園)
今日は角川庭園「おくのほそ道講座」。
今回は、いつもの講義ではなく、「おくのほそ道踏破」の歩き旅で撮影して来た風景写真をプロジェクターで見てもらった。
文章だけでなく、目でも楽しんでもらおうという企画だ。
写真を見て、少しでもで行った気になってもらえると嬉しい。
私自身は、この写真の数々は思い出そのものなので、とても楽しくプレゼンさせてもらった。
みなさんも楽しんでくれるかな~、とちょっと不安だったが、終了後、数人から「面白かった」と言っていただき、ホッとした。
最近、「おくのほそ道」の旅には「鎮魂の旅」という一面があるのではないか…、と考えるようになった。
「源義経」「木曽義仲」「西行」「藤中将実方」「斎藤別当実盛」など、「おくのほそ道」には、さまざまな人が登場するが、だいたいがみな悲運の中で果てた英雄たちである。
「源頼朝」「平清盛」などの「成功者」は登場しない。
(「西行」はともかく…)みな、華々しい活躍を遂げながらも、最後は悲運の中で死んでいった者たちばかりである。
いわゆる「敗者」…、「美しく悲しい敗者」である。
「西行」もそうだと言おうと思えば言える。
「西行」は本名・佐藤義清であり、藤原氏の流れを引く「武家の名門」であったが、その身分を自ら捨て、漂泊の人生を送ったのである。
詩歌人としてのちのち名を馳せたが、人生としては「落伍者」であったに違いない。
本来であれば清盛や頼朝のように華々しく戦場で働くべき男だったのだ。
日本人には「判官(ほうがん)びいき」という感情がある。
簡単に言えば弱い者に同情し、応援する、というものだ。
こういう感情はいつから生まれたのだろう。
「判官」…、つまり、源義経の悲劇以降生まれた感情なのだろうか。
その詳細はわからないが、芭蕉には「敗者」に対する切ない愛情が強くあった。
芭蕉は各地で、義経を、義仲を、西行を思い、句を残した。
そこには「鎮魂」の思いがあった、と考えている。
つまり芭蕉は旅の中で、英雄たちの「挽歌」(死者を悼む歌)を詠んだ、と考えてもいい。
「挽歌」は『万葉集』以来、「相聞歌」(恋歌)と並ぶ詩歌の重要なテーマである。
現代の詩歌には全くと言っていいほど無くなってしまったが、芭蕉の時代には、
詩歌を捧げることによって死者の魂を慰める。
そういう意識があったのではないか。
そんなことを考えながら読むと「おくのほそ道」の新たな魅力が見えてくる。
今後はそれを意識して「おくのほそ道」を考えたいと思っている。
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