(「鹿火屋」2023年11月号)

 

 

義仲の寝覚めの山か月かなし   芭蕉

(よしなかの ねざめのやまか つきかなし)

 

 

芥川龍之介の『芭蕉雑記』という文章に、

 

僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。

同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。

 

という一文がある。

芭蕉は弟子(惟然)に、

 

俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり。

(俳句なども人生の道草のようなもので面倒なものだ。)

 

と語ったそうだ。

しかし、一方、別の弟子(土芳)には「作句の心得」として、

 

大木倒すごとし。

鍔本(つばもと)にきりこむ心得、西瓜きるごとし。

((俳句は)大木を切り倒すように作れ、相手の刀の鍔本に斬り込むように、西瓜を切るように作れ。)

 

とも語っている。

この気迫の凄まじさは、前述の、「俳句は所詮人生の道草」と語った芭蕉と大きく矛盾している。

 

龍之介はこの「矛盾」について、

 

しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか?

ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon(デーモン) に憑かれてゐると云つた。

芭蕉も亦(また)世捨人になるには余りに詩魔の翻弄を蒙むつてゐたのではないであらうか?

つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?

 

と述べ、この「矛盾」は芭蕉の「天才」を証明するものであり、龍之介はその「矛盾」を愛している、と言っている。

 

私も、この「矛盾の大きさ」こそ、芭蕉の詩人としての「器の大きさ」「俳句の大きさ」ではないかと考えている。

矛盾が大きい人こそ「大きい人」なのではないか。

日本人は、その人の言葉や言動が矛盾していると、これを「批判」のネタとすることが多い。

昨今はそれが更に激しい。

鬼の首を取ったかのように、矛盾を指摘し、その人を批判する。

しかし、そういう人間ほど、器が小さく見えるのは私だけであろうか。

 

私は人間というのはそもそも「矛盾」を抱えた生き物だと思うし、その「矛盾の大きさ」こそ、その人の大きさなのだと思う。

龍之介は「世捨人」と「詩の魔性」を併せ持った芭蕉の矛盾を愛したのである。

 

例えば、高浜虚子は俳句に於いて「客観写生」を提唱したが、

 

去年今年貫く棒の如きもの

(こぞことし つらぬくぼうの ごときもの)

 

など、とても客観写生とは思えない句を多く残しているし、むしろ、この句は虚子の代表句となっている。

このことで虚子を批判する俳人もいるが、これは自らの器の小ささを告白しているようなものだ。

これもまた虚子の「大きさ」であり、この「矛盾の大きさ」が虚子の大きさなのである。

 

さて、話は変わるが「鹿火屋」(原朝子主宰)最新号(2023年11月号)、「原裕の『おくのほそ道』」(8)にもこういう一文を見つけた。

芭蕉は平安時代末期の武将・木曽義仲に並々ならぬ崇敬を持っていて、それは『おくのほそ道』で随所に見られる。

 

義仲に対する関心の深さは義経以上であった。

義仲とは異質の西行の跡を辿りながら、義仲に行きついているのは面白いことです。

 

義仲は「木曽義仲」、義経は「源義経」、西行は「西行法師」である。

義仲は平安末期の激動を波乱万丈に生きた「武将」であり、西行は同じ時代、戦乱の世に背を向け、生涯旅に生きた「歌人」である。

戦乱の世に飛び込み滅亡した義仲と、戦乱の世に背を向け詩歌に耽った西行…。

この二人の生き方は好対照であるが、芭蕉は西行を慕い旅を続けたが、一方で義仲を慕い、旅の途中途中で義仲ゆかりの地を訪ね、この悲運の武将の生涯に哀惜の涙を流している。

それは先日の旅でも実感した。

 

冒頭の句は、義仲が平家軍を打ち破った「倶利伽羅峠の戦い」、その舞台となった倶利伽羅峠で詠んだもの。

この時、義仲は日本史の舞台に華々しく登場したわけだが、最後は悲しく散った。

芭蕉はその倶利伽羅峠で、義仲のやがて迎えるであろう悲運に思いを馳せているのだ。

 

芭蕉は「世捨て人」の西行の人生を慕いながら、「武将」の義仲の人生をも愛した。

これも芭蕉の「矛盾」であり、原裕氏も、芭蕉のこの「矛盾」を愛しているかのようである。

 

ドナルド・キーン氏にもこういう文章がある。

 

独りでいたいという欲求と、逆に大勢に囲まれていたいという願望との分裂は、芭蕉に限らず、他の多くの詩人にも起こったことである。
同時に心中深い所では、詩人の運命は所詮孤独であると知っていたのにちがいあるまい。        
ードナルド・キーン『百代の過客』ー

 

キーン氏は芭蕉の中にある「孤独」と「人恋い」の「矛盾」を指摘し、これは「大詩人」の特徴でもある、と言っているのではないか。

 

「世捨て人」と「詩のデーモン」の矛盾

「木曽義仲」と「西行」の矛盾

「孤独」と「人恋い」の矛盾

 

こうやって考えると、「矛盾」する二つの異質のものは、表面的には「異質の二つ」に見えても、心の根源ではつながっているのではないか。

その「根源」が深ければ深いほど、「思い」が熱ければ熱いほど、表面的に「大きな矛盾」となって表れる…。

最近はそんな風に考えるようになった。

私も芭蕉の矛盾を愛する一人である。

 

 

 

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