(岐阜県関ケ原町 常盤塚)

 

 

【原 文】

 やまとより山城を経て、近江路に入(いり)て美濃に至る。
 います・山中を過(すぎ)て、いにしへ常盤の塚有(あり)。
 伊勢の守武(もりたけ)が云(いい)ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。
 我も又、
義朝の心に似たり秋の風
(よしともの こころににたり あきのかぜ)

 

【意 訳】

 大和(奈良)から山城(京都山科)を経て、近江(滋賀)路に入り、美濃(岐阜)に至る。
 今須・山中を過ぎて、昔の常盤塚がある。
 伊勢の荒木田守武が言った〈義朝殿に似たる秋風〉とは、どういうところが似ているのだろうか。
 私もまた守武に倣って、

義朝の心に似たり秋の風

 

先日、「野ざらし紀行」の現代語訳を終わらせたが、一か所、どうしてもうまく訳せないところがある。

上記の、

 

よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。

 

という箇所。

 

〈義朝殿に似たる秋風〉とは、どういうところが似ているのだろうか。

 

と一応、訳してみたが、自分でも意味がいまいちわかっていない(笑)。

 

義朝(よしとも)(1123~1160)とは、源頼朝や義経の父・源義朝のことで、河内源氏の六代目棟梁。

平安時代後期、平清盛と並んで勢力を伸ばしたが「平治の乱」(1160)で、清盛らに破れ、都を落ち延びる途中、尾張で、家人(けにん)の裏切りにあって謀殺された。

その最後は悲惨で、風呂をすすめられ、その入浴中(つまり丸腰の時に)、信頼していた家人たちに襲撃され殺された。

まあ、「悲惨」と言っても、世界史の悲惨な謀殺と較べれば大したことではないが、それでも、信頼していた家人に裏切られた、という悲劇は多くの人の同情を誘った。

しかし、生前、関東を中心とする東国に勢力を伸ばし、その基盤がのちのち、伊豆に配流されていた頼朝の挙兵の原動力となったのだから、義朝が歴史に残した功績は大きい。

 

さて、芭蕉の句だが、原文にもあるように、荒木田守武の〈よし朝殿に似たる秋風〉を踏まえて作っている。

「踏まえて」というより、今の感覚で言えば「パクリ」である(笑)。

 

よし朝殿に似たる秋風   守武

義朝の心に似たり秋の風  芭蕉

 

細かい表現の違いはあるにしても、要は「心」を入れただけである。

今だったら盗作問題になっている。

以前にも書いたのでここでは書かないが、「元の句や歌を踏まえる」手法は「本歌取り」というもので、全然問題ない。

まして、元の句をちゃんと紹介した上で、この句を詠んでいるわけだから、盗作ではなく、「元の句」に「和している」のだ。

 

守武は「俳諧の祖」と言われている人で、この人のことについても説明しなければならないが、以前に書いたので、こちらをご覧いただきたい。

 

 

守武の句だが、この句は「連歌」の「付け句」である。

「連歌」「付け句」も説明しないといけないが、面倒なので省く。

つまり、他人が詠んだ、

 

月見てや常盤の里へかへるらん

(つきみてや ときわのさとへ かえるらん)

 

という句(5・7・5)を受け、守武は、

 

よし朝殿に似たる秋風 

 

と7・7を付けたのである。

ここに「常盤(ときわ)」が出て来る。

「常盤」は「常盤御前」のことで、義朝の側室であり、義経の生母である。

「常盤」の生涯にはさまざまな説があるが、その一つに、義朝(或いは義経)を追いかけ、美濃関ヶ原で亡くなった、というものがある。

芭蕉は今、その墓と言われている「常盤塚」を訪ねたのである。

 

〈月見てや…〉の句意は、

 

月を見て、常盤の里へ帰ろうか。

 

というもので、〈よし朝殿に…〉の句意は、

 

常盤を愛し、謀殺された義朝殿に似た、悲しい秋風が吹いているよ。

 

とうことになるだろう。

義朝の心は、今も常盤の亡くなった塚へ秋風となって、うらがなしく吹いている…、と解すればいいだろうか。

「常盤の里」を「常盤塚のあるところ」と断定していいのかどうか悩むが、常盤がどこで生まれたとか、そういう細かい資料は当時も今も残っていないから、「常盤塚のあるところ」と考えていいかもしれない。

常盤はここで、山賊に殺された、という説もあり、地元の人がそれを哀れに思い、塚を建てた、と言われている。

つまり、その里、塚には、今も、義朝の恨みにも悲しみにも似た秋風が吹いている…、という意味だろう。

「秋風」にはやはり哀愁の思いがある。

 

さて、ここまで考えると、(なんとなくだが…)、

 

いづれの所か似たりけん。

 

とは、

 

「義朝」と「秋風」と、どういうところが似ているのだろうか?

 

と解するのが一番妥当に思えて来た。

そして、芭蕉は「どこが似ているのだろう」とは言いながら、

 

我も又(私もまた守武に倣って)

 

といい、上記の句を詠っているのである。

そう考えると、「似たりけん」というのは一種の「反語」ではないかと考えた。

「どこが似ているのだろう」といいながらも、芭蕉は守武の、この句に籠めた思いを十分理解していた。

 

私なりに訳してみると、

 

伊勢の荒木田守武がかつて〈よし朝殿に似たる秋風〉と詠んだが、この秋風に吹かれていると、あらためて義朝や常磐の悲しみがよくわかる。

私もまた、守武に倣い、

義朝の心に似たり秋の風

と詠んでみた。

 

としてみたい。

 

 

 

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