(東京都杉並区荻窪 旧・角川源義邸)
今日は荻窪の「青丹会」。
木曜は西荻窪で二つの句会、おとといは荻窪旧角川邸で「おくのほそ道講座」、きのうは西荻窪で「おくのほそ道を読む会」、今日は荻窪「青丹会」と四日間、荻窪、西荻窪で過ごした。
事務所が西荻窪にあるので、実に効率がいい仕事ぶりだ(笑)。
今日の句会は全然ダメだったが、結構充実した四日間だった。
句会が終わり、有志でお寿司をいただいて、横須賀に戻って来た。
今日は雨、午前中はハラハラ程度であったが、横浜あたりではかなり強く降っていた。
(高知県)
さて、松尾芭蕉の話になる。
芭蕉は元禄2年(1689)に「おくのほそ道」の旅を終えた。
その後、大きな旅には出ていない。
元禄4年(1691)に京から江戸へ、元禄7年(1694)に江戸から伊賀へと向かっている。
大きな旅と言えなくもないが、まあ、これは芭蕉にしてみれば歩きなれた旅と言っていい。
芭蕉は「おくのほそ道」を「生涯最後の旅」と考えていたのか?
あるいは、また「別の新たな旅」を計画していたのだろうか?
よく言われているのは「四国・九州の旅」。
芭蕉は四国や九州への旅を考えていた、という説がある。
その根拠は「芭蕉の手紙(書簡)」にある。
元禄3年(1690)1月2日付の弟子・荷兮(かけい)宛の書簡にこのように書いてある。
四国の山ぶみ、つくしの舩路、いまだ心不定候。
意訳すると、
四国の山並み、九州筑紫の舟での旅、いまだ決めかねています。
となる。
「荷兮」とは名古屋の医者で、芭蕉の弟子・山本荷兮のこと。
のち芭蕉と袂を分かつが、当時はもっとも芭蕉の信頼していた弟子の一人だった。
「つくし」は「筑紫」で、今でいえば福岡市や北九州市あたり。
昔も今も九州の中心地であり、「九州自体」を「筑紫」とも呼ぶことがある。
この書簡の文面から推察すると、芭蕉は「おくのほそ道」、東北の旅のあと、「四国・九州の北部」あるいは「四国・九州全般」への旅を検討している、と荷兮に告げたことがあり、それを実行に移すかどうか、悩んでいたことがわかる。
なぜ、悩んでいたのだろう?
やはり体力的に厳しいと考えたのだろうか?
しかし、関西から九州へは瀬戸内海を使って船で行けるだろうから、そんなに厳しい旅とは思えないのだが…。
私の考えが甘いのだろうか…。
ともかく、この書簡を根拠として、芭蕉は四国・九州への旅を計画していた、という説が言われているのだ。
しかし、この書簡は元禄3年(1690)。
芭蕉が亡くなったのは元禄7年(1694)。
書簡から4年経っても、結局、旅に出なかったのだから、やはり芭蕉はこの旅はさほど真剣には考えておらず、結局やめてしまった、と考えていいのではないか。
もし、実現していたら「おくのほそ道」以上の名句が生まれたかもしれないし、四国や九州の人々が現代まで誇れるような句を生み出していたのかもしれない。
また、芭蕉の更なる新境地が開け、現代俳句にも大きな影響を与えていたかもしれない。
やはり体力的にきつい、と考えたのだろうか…。
私は実際「おくのほそ道」を歩いてしみじみ思ったのだが、「おくのほそ道」の旅はかなり過酷で、芭蕉の体に大きな損傷を与えた、と思う。
とりわけ、真夏の北陸路の旅はかなりきつかっただろうし、芭蕉の死を早めたような気がするのである。
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