(神奈川県横須賀市長沢)

 

 

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば   大伴家持(おおとも・やかもち)

(うらうらに てれるはるびに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば)

 

〈訳〉

うららかに照りわたる春の日差しのなかを、ひばりが鳴きながら空高く飛んでゆく。

そのさえずりを耳にしながら一人で物思いにふけっていると物悲しさは深まっていくばかりだ。

 

 

今日は小雨程度の雨だったが、風が強かった。

ここ横須賀市長沢は鎌倉ほどではないが、海がある為、この時期、多くの人が殺到する。

が、今日はさすがに人が少ない。

 

 

初めて見かけた花。

「夕化粧」という花らしい。

「夕化粧」は「アカバナ科マツヨイグサ属」の多年草。

南米、北米南部原産帰化植物。

温暖な地域に広く分布する。

日本へは明治時代に輸入され、主に関東以西で野生化している。

5月~9月に花が咲くそうだが、「季語」にはなっていない。

まあ、帰化植物だから当然かもしれない。

秋の季語に「白粉花」(おしろいばな)があり、別名「夕化粧」というそうなので、今後も季語になるのは難しいかも。

ただ夕化粧なんて、とても美しい名だ。

 

ところで、このところ「大伴家持」のことを書いているが、家持は『万葉集』後期の歌人であるだけに、私の印象では他の万葉歌人と較べると、後世の『古今和歌集』の詩情に近い。

『万葉集』の詠いぶりはよく、

 

益荒男(ますらお)ぶり

 

と表現される。

「益荒男ぶり」とは、

 

男らしく大らかな詠みぶり

 

ということ。

それに対し、家持の歌はどことなく繊細だ。

冒頭の歌は家持の代表歌だが、やはりどことなく繊細。

「益荒男ぶり」の『万葉集』に対し、平安時代に出来た『古今和歌集』は、

 

手弱女(たおやめ)ぶり

 

と表現されている。

 

女性的で、優美・繊細な歌風

 

ということだ。

もちろん、実際に『古今和歌集』の歌と較べてみると、家持の歌のほうが遥かに雄大で「益荒男ぶり」である。

あくまで柿本人麻呂や山辺赤人、額田王などと較べると…、という話だ。

これは時代ということもあるだろう。

家持は万葉後期の歌人であり、万葉前期の人麻呂たちより後世の人だ。

時代が立つほどに貴族文化が色濃くなり、繊細になっていった、ということはある。

また、家持自身の人生というか、境遇も大きく影響しているだろう。

 

大伴家持(718?~785)の生きた時代は「藤原氏台頭」の時代であった。

藤原氏が権勢を独占してゆく時代であり、それはそのまま、その他の名門豪族の没落を意味した。

大伴氏は飛鳥時代の頃は、物部氏とともに「朝廷の軍事」をつかさどる重職の一族だった。

しかし、奈良時代になると、藤原氏があらゆる役目を独占するようになった。

家持は、その大伴氏の嫡流で、頭領である。

家持には大伴氏再興という重責が常にのしかかっていたはずである。

 

『図録 地図とあらすじでわかる! 万葉集』(青春新書)では、家持のことを、

 

政争に翻弄された悲運の万葉歌人

 

と紹介している。

 

家持は、歌人であると同時に政治家でもあった。

名門である大伴氏の嫡流に生まれ、父の旅人(たびと)同様、政界で活躍し、やがて激しい勢力争いに巻き込まれた。

(略)

当時、中央で政権を握っていたのは聖武天皇の後ろ盾を得ていた橘諸兄(たちばなのもろえ)で、大伴氏もその一翼を担っていた。

諸兄や家持は、台頭する藤原氏の脅威のなかで天皇親政をより強固なものにしようとした。

だが755(天平勝宝7)年、諸兄が密告によって失脚すると、聖武天皇もまもなく崩御し、家持の希望はついえた。

 

その後も家持は波乱の人生を送る。

橘奈良麻呂の乱には関与していなかったが、因幡(鳥取)に国守として左遷させられる。

都へ戻ると、藤原仲麻呂暗殺計画を疑われ薩摩(鹿児島)に左遷させられた。

いずれも藤原氏の嫌がらせと言われている。

聖武帝、諸兄亡き、家持の後半生は藤原氏一族にいじめられ続けた、と言っていい。

 

帰京後、中納言にまで出世したが、氷上川継の謀反に関与したと、またも疑いをかけられ、多賀城(宮城)へと飛ばされ、そこで亡くなった、と言われている。

死後も悲劇は続き、死後直後、藤原種継暗殺事件の関与を疑われ、埋葬も許可されず、官位もはく奪され、子の永主(ながぬし)は隠岐へと流された。

その為、家持の亡くなった場所も不明であり、墓もない。

 

この不遇の時期に詠まれたのが、冒頭の歌である。

家持は68歳で亡くなったが、42歳以降の歌は残っていない。

「歌」をやめてしまった、とも考えられるが、はっきりしたことはわかっていない。

藤原氏専制が確立した頃から歌を残さなくなったのである。

 

家持は、

 

孤愁の人

 

と言われている。

「孤愁」とは、

 

孤独な状況の中での悲しさや寂しさ

 

という意味。

人によっては家持の「孤愁」は「近代的孤独」と通じるものがある、と指摘している。

 

私は正直に言うと、この繊細な哀愁がどうにももどかしく、柿本人麻呂や山辺赤人のような「大きな歌」、つまり「益荒男ぶりの歌」のほうが好きで、家持の良さをまだ理解出来ていない。

ただ、松尾芭蕉も家持を高く評価していたし、角川春樹さんも、家持の「孤愁」こそ日本の詩歌の大きな潮流である、と言っておられた。

私の尊敬する二人が高く評価する家持の歌を私も深く理解したいと思っている。

先日の「富山行き」はそのきっかけとなってくれればいいと考えている。

 

ちなみに、私が今現在、最も好きな家持の歌は、

 

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを  『万葉集』巻17

(かからんと かねてしりせば こしのうみの ありそのなみも みせましものを)

〈意訳〉

このようなことになると知っていたのなら、この越中の美しい有磯の海をお前に見せてあげたのに…。

 

である。

 

 

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