(新潟県糸魚川市能生)

 

「能生」は「蟹」がうまい、と句会仲間から教えてもらったことがある。

食べるかどうかは決めていない(笑)。

成り行き次第である。

「能生」(のう)は芭蕉の宿泊した町。

 

7月11日(現暦8月25日)

快晴。(暑甚シ)巳ノ下剋、高田ヲ立。

五智・居太ヲ拝。

名立ハ状不届(とどけず)、直(すぐ)ニ能生へ通、暮テ着。

玉や五良兵衛方二宿。

月晴。

ー「曾良随行日記」―

 

芭蕉は「名立」(上越市)まで行く予定だったようだ。

グーグルマップ上の計算だが、

 

高田駅から直江津駅までの距離  7キロ

直江津駅から名立駅までの距離  20キロ

 

予定の歩行距離は「27キロ」。

芭蕉にとっては「楽勝」のコースだったに違いない。

なので「巳の下刻」(午前10時過ぎ)という芭蕉にしては遅い時刻に高田を出立した。

「五智国分寺」「居多神社」を参拝し、「名立」(なだち)に到着。

何時に「名立」に着いたかはわからないが、予定より早く到着したらしい。

 

「名立ハ状不届」…。

名立では「宿の紹介状」を持参していた。

しかし、早く着いたので、宿を取るのを止め、「能生」まで足を延ばすことにしたのだ。

 

ちなみに「名立」から「能生」までは約9キロ。

合計36キロになる。

出発が遅かったので「能生」に着いたのは夜になってしまったのだ。

 

 

宿場町の入り口に神社が建っている。

あとで知ったが、この町はこの神社(白山神社)を中心に作られていたらしい。

私は写真の山(たしか権現山と言った)の左側、海沿いの道を歩いて来たが、昔はそういう道はなく、標高85mの、この山を越えて来たのである。

芭蕉も、義経も、加賀の殿様もそうして来た。

神社が「加賀街道」の一部なのである。

 

芭蕉が泊まった「玉屋五郎兵衛宅」(玉屋旅館)を探した。

が…、探しても探しても見つからない。

雨も降って来た。

二人に声を掛けたが「知らない」と言われ、あきらめかけたが、最後に声を掛けた人が、「白山神社」の「氏子総代」、この町を知り尽くしている人で、なんなく(?)玉屋旅館に連れて行ってくれた。

 

 

なんと趣のある建物…。

ちょうど「玉屋」のご主人も戻って来られ、「芭蕉談義」に花が咲いた(笑)。

今は旅館だが、当時は「仕出し屋」だったのだそうだ。

なぜ旅館ではなく、仕出し屋に芭蕉は泊まったのか?

ご主人の答えは、

 

そこしか空いてなかったから。

 

というもの。

思いがけず名立に早く着いてしまい、能生まで足を延ばしたものの、能生に着いた時はすっかり夜になってしまい、どの旅籠も閉まっていた。

たまたま夜、仕事をしていた「玉屋」の灯りが付いていたので、そこで宿を頼んだ…というのがご主人の答えだった。

 

今でも多くの人が芭蕉を慕って訪れるらしく、ご自身で調べ、まとめた「冊子」もいただいた。

ご主人は、

 

荒海や佐渡に横たふ天の川

 

は、ここで、あの権現山の頂上で作られたのだ、と力説しておられた。

思いがけず、夜になってしまった道、権現山の頂上に立った時、天の川が見えた、というのである。

「出雲崎」も「柏崎」「直江津」も天気が悪かった。

能生では「月晴」と書いてある。

きっと落ちるような星空が見えたのではないか、というのである。

面白い説だった。

この件に関しては後日考えてみようと思う。

「玉屋」は今あるところは移転したあとで、昔の場所も教えてもらった。

 

 

ここがそうらしい。

氏子総代の方には「白山神社」も案内してもらった。

 

 

ここが「加賀街道」なのだそうだ。

当時はもう少しきれいだったろうが、か細い道である。

ここを芭蕉が…、義経が通った、と想像すると実に感慨深かった。

 

 

結局、道の駅で「ずわい蟹」を食べた(笑)。

感動的なうまさだった。

 

 

 

 

 

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