(東京都杉並区荻窪 すぎなみ詩歌館~旧・角川源義邸)
 

 

父祖の地や蜻蛉は赤き身をたるる     角川源義

(ふそのちや あきつはあかき みをたるる)

 

 

角川源義先生は、

 

1917年(大正6年) 富山県中新川郡東水橋町(現・富山市)

 

に生まれた。

実家は「米殻商」で、かなり裕福な家であったそうだ。

もともと「魚の行商」で生計を立てていたが、途中から「米殻店」に切り替え、「北陸一の米殻商」とも言われた、と年譜などに書かれてある。

ただ、いつ「米殻店」に商売替えしたのかは、わからない。

「米殻」とは要するに「米」のことで、「米殻店」は米を中心に販売する店のことで、米以外の穀物、餅なども扱っていた。

 

このことでふと思いつくのが「米騒動」である。

「米騒動」は1917年、富山県で始まった。

ちょうど源義先生が生まれた年である。

富山市・滑川町とともに「発端」となったのが「水橋」だった。

この三町はすぐ近くであるから、そのあたりを中心に始まった、と言っていい。

 

時代はちょうど「第一次世界大戦」の頃。

一部では戦争による好景気に沸き、新たな富裕層が生まれた。

一方、戦争に対する不安から、「米」が富裕層の「投機」の対象となったり、大地主や米殻商による「米の備蓄」や「大量買い付け」が起こったりして「米価」が短期間に倍近く跳ねあがった。

このあたりで暮らす女性たちは、米を舟に積む作業に多く従事していた。

積まれた米は北海道を始め、日本全国に運ばれた。

 

女性たちは一向に豊かにならない生活で、「米価」だけがどんどん跳ね上がり、地元の米を買うことが出来なくなり、地元の米がよそへどんどん運ばれていってしまうことに不安を覚える。

そこで女たちは、今で言う「ストライキ」を起こす。

それだけではなく、米を舟に積むことを妨害し、舟による「米移出」を阻止した。

実際には「暴動」というほどではなかった。

 

しかし、これらが「女性による行動」であることが当時はセンセーショナルで、次第に全国に知られ、都市部で労働闘争・賃金闘争を繰り広げていた労働者たちの共感を呼び、大阪、東京などで数千人、数万人におよぶ「暴動」に発展し、全国に広まった。

 

結局、この「米騒動」は鎮圧に出て来た軍隊により数十名の死者を出し、当時の寺内貫太郎内閣を総辞職にまで追い込んだのである。

 

私が気になるのは、角川家は県下で有数の「米殻店」と聞いているので「米騒動」に巻き込まれたのではないか、ということだ。

しかし、細かく調べてみると、「暴動」は主に都市部で起きており、発端の水橋周辺での行動はあくまで「ストライキ」程度のものである。

実際、水橋などで行動を起こした女性たちも、都市部を中心に全国で暴動が生まれていることに戸惑っていたそうである。

彼女らの行動は「役所」「米殻商」「素封家」(大金持)を回り、「米を移出しないこと」「大量に貯め込んでいる米を放出すること」を迫った。

それも暴動などは起こらず、嘆願のように説得したのだ、という。

そう考えると、「抗議行動」くらいはあったかもしれないが、家屋を破壊されたり、米俵が強奪されたりとか、そういうことは起こらなかったように思える。

 

また、前述のとおり、いつ、「魚の行商」から「米殻商」に転職したのかがわからず、その頃は米騒動とは関係なかった、とも考えられる。

なんだか締まらない結論だが、何かの折にまた考えてみたい。

 

角川春樹さんの句に、

 

祭来る天秤棒の角川家

 

というのがある。

この「天秤棒」は角川家の家宝とされているもので、春樹さんの祖父・源義先生の父である源三郎の、魚の行商をしていた頃の「天秤棒」なのだそうだ。

この源三郎が「魚の行商」でこつこつと稼ぎ、その後、「米殻商」に転じて、北陸一の米殻商と言われるまでに、一代で成し遂げた。

この源三郎さんの苦労・努力がなければ源義先生・春樹さんの活躍は無かったかもしれない。

 

 

 

 

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