(長野県 木曽街道)

 

 

信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ久都はけわが背   『万葉集』巻14~3399

 

(しなのじは いまのはりみち かりばねに あしふましなん くつはけわがせ)

 

 

「東歌」(あづまうた)の中でも最も有名な歌の一つ。

私も国語の授業で、この歌を知り、感動した思い出がある。

 

信濃道は新しく出来たばかりの道で、篠などの刈株がそそけ立っています。

どうか靴を履いてお出かけください。わが夫よ。

 

この歌は「東歌」であり「防人歌」(さきもりうた)でもある。

関東あたりに住む若夫婦に、大和朝廷の命令が届き、夫が防人として九州へ行くこととなった。

泣く泣く旅立つ夫へ、妻が呼びかけた歌である。

この時代、「靴」というものは貴重品だったのは間違いない。

旅立つ夫の為に、妻が苦労して手に入れたのであろう。

どうか、この「靴」を履いて旅立ってください、と言っているのだ。

 

本で知ったのだが、「防人」に朝廷からは旅費も食費も出ず、全て自腹だったらしい。

防人の役目を終えても、お金が無い(まあ、当時、「お金なるもの」はもともとないのだが…)ので、故郷に辿り着くことが出来ず、野垂れ死にする者も多かった。

コロナ騒動でこれだけ政府に補償を! と叫んでいるわれわれを見たら防人は大仰天することだろう。

それはともかく、防人に行くということは、ほとんど「今生の別れ」と同じようなものだった。

それだけに妻の優しさが切なく、涙を誘うのである。

 

さて、この歌の「信濃道」のことである。

この「新しく出来た信濃道」とは「中山道」(木曽街道)のことだ、ということを最近になって知った。

「東海道」は「ヤマトタケル」の時代に(現在の東海道のルートとは若干異なるが…)すでにあったが、「中山道」は奈良時代、朝廷の政策によって出来た街道なのである。

『続日本記』の和銅6年(713)の記述にこう書いてある。

 

美濃信濃二国の堺は径道険阻にして往還艱難なり。

よりて吉蘇路を通す

 

岐阜と長野の境は道が細くて険しく、行き来が難しかった。

そこで「木曽路」を開鑿した。

 

というのである。

710年が平城京遷都。

であるから「木曽路」は天平時代、聖武天皇の頃に整備された。

また、この記述では「木曽」は「吉蘇」と表記している。

木曽の古名は「吉蘇」なのも知った。

 

私は2年をかけて「中山道」をすべて歩いた。

木曽路は今でも粗末な道である。

私が「木曽路」を歩いた時、しきりに島崎藤村・・・というか、彼の小説「夜明け前」のことを考えた。

また、この道は若山牧水の歩いた道であり、芭蕉が「更科紀行」で歩いた道であり、正岡子規が「かけはしの記」で歩いた道であり、関ヶ原へと急ぐ徳川秀忠軍の道でもある。

この道は、絶望的な悲しみの中で歩いた防人の男たちの道でもあったのだ。

そのことを想いながら歩きたかったな~、などとふと考えたが、さすがにもう一回歩こうとは思わない…。

 

あと、どうでもいい話だが、「しゃぶしゃぶ木曽路」は「木曽」はおろか長野に一店舗もないらしい(笑)。

 

 

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