(神奈川県三浦市)
昔、句集制作をしている人に相談を受けたことがある。
その句集の著者はさまざまな俳句大会(○○市芭蕉祭俳句大会とか、△△市民俳句大会とか…)に参加するのが趣味の方で、ゲラを見ると、ほとんど全ての句に、
△△市民俳句大会□□先生特選
とか、
○○市民俳句大会市長賞
など、「前書き」のようなものをついていて、これをどう思うか? というのである。
私は、
やめたほうがいいね。
と言った。
「△△大会大賞」とかならまだいいが、「△△大会□□先生佳作」なんていう前書きがたくさんあった。
ここまで多いと、句集を通して作品を世に問う…、というより、単に作者の「自慢」を見せられているだけの印象になる。
それは結果的に著者自身にとってもよくない、と私は思う。
その辺を話して、説得してみたら?
と答えた。
が、結局はほとんど全ての句に「前書き」を付けたそうだ。
「前書き」は本来、そういう意味でつけるものではないのだが…。
どうしても入れたいのであれば、どうしても入れたい賞だけ、巻末の「著者略歴」に記載するのが一番いい方法だと、私は思う。
これは私見だが、昔から「高点句に名句なし」と言われているように「大会高点句にも名句なし」と言うことが出来る。
なぜなら、大会高点句は「無難な句」が選ばれるからだ。
(もちろん絶対とは言いきれないが…。)
自分が、大会選者になったと想像して考えてみればわかる。
あくまで仮にだが、琵琶湖俳句大会という大会に選者として呼ばれ、大会応募作品を選考した、と想像してみて欲しい。
大会選者がまず考えるのは、大会の無事な開催及び終了で、選者としてそれに協力するのである。
例えば、そこで「殺したいほど切ない愛の情念」を詠った句があったとする。
これを優秀作としてみなさんは選者として特選に選ぶだろうか。
今は琵琶湖俳句大会である。
やはり、琵琶湖の豊かな風景だとか、そこに住む人々の日々の暮らしの風景だとか、日常の親子の微笑ましい情景を優先して取るのではないか。
まして、この句を特選に取ったとし、いざ、作者が発表され、それが似ても似つかない「脂ぎったおっさん」が名乗りを上げたら会場がしらけてしまう(笑)。
性的な句ももちろん敬遠されるだろう。
さらに言えば、選句時間も短時間である。
例えば当日句は1時間くらいで全ての句に眼を通し、特選、佳作を決定しなければならない。
仮に三百名の参加で、投句二句であれば600句である。
その場合は一般的に「表現に難のある句」をどんどん落とし、最後は「文句のない句」を選ぶ。
つまり「無難でそれなりにいい句」を選びのだ。
冒険的、野心的な作品が選ばれる可能性は低い。
では、俳句の先生はどこで新しい才能を見い出したり、作家を育てるのと言えば、自身が主宰する結社や、総合誌の賞や協会賞の選考の場である。
話を戻すが、その句集の著者は、その句集を子供や孫などに記念として残そうとしたのかもしれない。
そうだったとしたら、それでもいい。
(それでも、作品そのもので語るべきだと私自身は思うが…。)
もし世に問うつもりであれば、そのような「前書き」は、読む人に「作家」ではなく、単なる「愛好者」というレッテルを貼られてしまう可能性が高い。
つまり作家魂を感じないのである。
俳句大会などはみんなで楽しむもの、と考え、あまり成績などに一喜一憂しないほうがいい。
そして句集にするときは、そういった過去の評価を捨て、改めて世に問うつもりで、勝負したい。
まあ、どうでもいい、余計な話だが、せっかく俳句をやっているのだから、一人でも「作家」になるという気概を持って欲しいと思うので、こういうことをちょっと書いてみた。
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