仕事よりいのち思へと春の山 飯田龍太(いいだ・りゅうた)
先日、山梨県笛吹市の飯田蛇笏・龍太住居「山廬」(さんろ)へ行った時、蛇笏の孫、龍太の息子であり、山廬文化振興会会長の飯田秀實さんからお聞きした話を、ぜひ、書き残しておきたい。
龍太の選句とその姿勢
についてである。
蛇笏が創刊し、龍太が継承した俳誌「雲母」は当時4000人近くの会員の規模を誇った。
これは当時、おそらくは「ホトトギス」に次ぐ大結社であった。
その会員から毎月5句の投句が送られてくる。
で、あるから合計「2万句」である。
龍太はその句を「三日三晩」かけて「選句」をしたそうである。
その際には、家人は余計なことを話しかけることは出来なかったし、物音さえも立てないように注意して過ごしたのだ、という。
もちろん、全くの「不眠不休」ではないが、食事もほとんど取らなかったそうである。
で、あるから。
「選句」が終わり書斎から出てくると、龍太の頬はいつもげっそりと痩せこけ、精魂尽き果てた様子だったそうである。
他の人のことはよく知らないが、今、これほどまでの精魂を込め「選句」をしている人はいるのだろうか?
私も数十人ほどの俳句愛好誌「海光」の代表を務め、選をしている。
その人の良さを少しでも伸ばせるよう、丁寧に読み、自分なりに真剣に選をしてきたつもりだったが、秀實さんからこの話を聞いた時は、正直、打ちのめされた思いだった。
龍太は、主宰誌「雲母」から多くの逸材を育てたのはもちろんだが、広く俳壇の、新しい才能を見つけ、顕彰した。
ある時期、特に若手俳人にとっては、龍太に認められることが俳壇への登竜門だった。
これは、龍太の選句眼が素晴らしいのではなく、(もちろん、それもあるが…)それほどまでに選句に真剣であった、ということである。
龍太は、1992年、突然「雲母」を終刊し、俳壇から引退した。
そのことは当時、俳壇で大きな話題を呼んだ。
多くの人が、
雲母終刊の謎
などと書き立てた。
龍太は、「雲母」終刊理由の一つに、高齢により、選句が体力的にきつく、納得のいく選が出来ない、ということを挙げていた。
そのことは多くの人が首をかしげた。
龍太はまだ70代であった、と思う。
今の結社はもちろん、当時でも70代の主宰はざらである。
それに、大新聞の俳壇の選者などは、龍太以上の選句量をこなしていたからである。
正直に言えば、みな、大結社の選者、大新聞の選者などは、ある意味「軽やかに」選句をこなしているもの、と思いこんでいたのだ。
しかし、龍太は違ったのである。
「命を削って」選句をしていた。
この情熱を多くの人、いや、一部の人でいいから、継承することを心がけておかなければならない、と思う。
掲句は、決して大げさなものではなく、龍太の実感、本心の一句なのである。
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