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朝起の顔ふきさます青田かな      惟然
 
(あさおきの かお ふきさます あおたかな)
 
 
 
広瀬惟然(ひろせ・いぜん)は松尾芭蕉の弟子で謎の多い人物。
 
私は、毎年、友人の中村猛虎らが主催する姫路の播磨芭蕉忌フェスティバルに出席しているので、姫路・増位山随願寺に、かつて建っていた「風羅堂」ゆかりの俳諧師として知っているが、蕉門俳人としては、宝井其角や向井去来など、他の蕉門俳人と較べると影が薄い。
「風羅坊」とも名乗っていた。
 
惟然(慶安元年(1648)~宝永8年(1711))は現在の岐阜県関市の酒造業の三男として生まれた。
14歳で名古屋の商家に養子に入るが、39歳の時、なんと、妻子を捨て、関に戻り「出家」した、という。
そのころ、「笈の小文」の旅で岐阜に逗留していた芭蕉と出会い、その門下となった。
翌年には、「おくのほそ道」の旅を終え、岐阜大垣に滞在する芭蕉を訪ね、その後しばらく、芭蕉の身の回りの世話などをしていたようだ。
この人の一番ユニーク…、というか異質なところは、芭蕉の死後、芭蕉の俳句を「和讃」に仕立て、「風羅念仏」を唱え、全国を行脚した、というところである。
「和讃」とは「仏教讃歌」「仏教歌謡」のことで、想像だが、
 
夏草や~♪兵どもが夢の跡~♪ あっ、それ、ナムアミダ~~♪
 
みたいなことを唄って、全国を放浪したらしい。
 
この惟然が、芭蕉から「おくのほそ道」で使用した蓑と笠を譲り受け、それが惟然の弟子に伝わり、姫路・増位山随願寺に、それを安置するお堂(風羅堂)を建てた、というのである。
 
兵庫県姫路市増位山にあった芭蕉遺愛の蓑と笠について
 
ちょっと不思議なところがあり、近づきがたい感じがする。
はっきり言えば、(私から見れば…)「変人」である。
 
代表作も、

水鳥やむかふの岸へつういつうい
水さつと鳥よふはふはふうはふは
きりぎりすさあとらまへたはあとんた
 
と、句もやっぱりどこか変だ。
三句目は読みづらいが、わかりやすくすれば、
 
きりぎりす、さあ、捕まえた、はあ、飛んだ(逃げた)
 
というもので、いい句なんだが悪い句なんだがよくわからない。
 
ただ、なるほど、これに節をつけて踊れば楽しいような気がする。
「風羅念仏」というのはそういうものだったのだろう。
 
ただ、掲句はとてもいい句だと思う。
30歳くらいの頃、「河」松戸支部の吟行鍛錬会で、千葉県大原というところに泊まった。
1日3回、最後の句会は0時過ぎまでかかった、ハードな鍛錬会だった。
その翌朝、目が覚め、旅館の周囲の田んぼを見渡した時の気分がこんな感じだった。
 
青田が大きくなびき、朝の涼気を含んだ風が顔を洗うように撫でてゆくのである。
眠気が吹っ飛ぶ…というわけではないが、すでに新しい1日が始まっていることを、寝ぼけ顔に教えてくれたようだった。
 
惟然には、この風はどんな風であったのだろう。
晩年の作だとしたら、芭蕉追善行脚で、旅から旅の時だっただろうか。
さあ、また歩き出そう、今日も暑くなりそうだ…、などと思ったのであろうか。