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「人間探求派」について書きたい。
…といってもそんなに難しいことを書くつもりはない。
「人間探求派というのは何なのか」ということを、私なりの見解で書く。
 
どうも、俳句の主義主張、理念、ムーブメントの定義は実に曖昧である。
例えば、私には高浜虚子の「ホトトギス」が提唱した、
 
客観写生
 
と、澤木欣一の「風」が提唱した、
 
即物具象(そくぶつぐしょう)
 
の違いがわからない。
簡単に言えば、どちらも、
 
「もの」をありのままに詠む
 
ということである。
じゃあ、どちらも「客観写生」でいいじゃないか、という気がする。
「風」系の俳人の方に、何度か聞いてみたことがあるが、よくわからない。
ただ、数人に聞いてみて、少しわかってきた気もする。
「客観写生」は、「即物具象」と比べて、自然やものに対して、「手放しの敬意」が存在する。
「即物具象」にはあまりそういうものはない。
自分と「もの」が対等で、どちらかというと「リアリズムを追求」する姿勢がある。
情緒的接し方、と、即物的接し方の違い、と言うべきか。
今のところ、それくらいしかわからない。
 
さて、「人間探求派」だが、ネットで調べると、こう書いてあった。
 
人間探求派とは、俳句において、自己の追求がそのまま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとするもの。
 
これもわかったようで、わからない。
 
自己の追求が、そのまま俳句の追求になるように…。
 
とあるが、人間探求派の俳人が登場するまで、そういうものはなかったのか、というと決してそんなことはないからである。

人間探求派という呼称は「俳句研究」(1939年8月号)に掲載された座談会「新しい俳句の課題」の中から生まれた。中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷が参加して行われた座談会で、同誌編集長であった山本健吉が、
 
貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね。
 
と発言し、それからこの四人の俳句、および、そういった傾向の俳句を「人間探求派」と呼ばれるようになった。
 
私の見解を述べたい。
水原秋櫻子が「ホトトギス」を脱退し、主宰誌「馬酔木」で新興俳句運動を展開する。
「馬酔木」の理念はいろいろあるが、当時、多くの人に支持された理由は、
 
反「ホトトギス」
反花鳥諷詠
 
ということである。
「反花鳥諷詠」とは、俳句は自然(花鳥風月)諷詠だけではなく、もっと、社会のこととか、人生のこととか、自己の内面世界だとか、そういうものを積極的に詠んでいい、ということだ。
この姿勢は、俳句を古臭い文芸だと思いこんでいた若い俳人を魅了し、「馬酔木」に多くの新鋭を集結させた。
 
その「馬酔木」の中の代表選手は、
 
高屋窓秋
石橋辰之助
石田波郷
加藤楸邨
 
である。
 
さて、その新興俳句運動だが、社会を詠おう、自己の世界を表現しよう、とすると、どうしても「季語」というものが邪魔になる。
一句の主題が「社会」「人生」「自己」だから、季語はいらない、という話になってくるのは当然であろう。
高屋窓秋、石橋辰之助らは「無季俳句」を作り始めた。
しかし、師の水原秋櫻子は、無季俳句を認めなかった。
二人は水原秋櫻子と袂を分かち、「馬酔木」を辞し、無季俳句運動、前衛俳句運動の旗手として活躍した。
 
さて、ここから人間探求派である。
同じ「馬酔木」の新鋭であった波郷や楸邨にも、同時代を生きる若者として、窓秋らと同じ思いがあった。
しかし、二人は、秋櫻子同様、「季語」を取ってしまっては「俳句」では無くなってしまう、と考えただろう。
「有季定型」を守りつつ、窓秋らが目指したものを実現したい…、これが「人間探求派」なのだ、と私は考える。
 
私は「人間探求派」のこの考えこそが、現代俳句にもっとも大きな影響を与え、現代俳句のスタンダードになっている、と考える。
それでは、季語は一句の中で、どういう形で、何の役割を果たすのか?
「季語」は「自己の心を代弁するもの」と考えた。
この季語の使い方が、現代俳句のスタンダードになった、と思う。
 
例えば、波郷の、
 
女来と帯捲き出づる百日紅
(おんなくと  おびまきいづる  さるすべり)
 
アパートで半裸状態でだらけていたら、ふいに女が訪ねて来た。
慌てて帯を捲いて、身支度を整えている…、という場面である。
季語「百日紅」は、夏のうだるような暑さをも表現しているが、同時に、「百日紅」の鮮やかな赤は、不意の女性客に、心をときめかせる若い男性の心の華やぎを代弁している。
 
草田男の、
 
蟾蜍長子家去る由もなし
(ひきがえる   ちょうしいえさる  よしもなし)
 
の季語「蟾蜍」は、家の長子として生まれた作者の「覚悟」「苦悩」の象徴を表している。
 
楸邨の、
 
灯を消すや心崖なす月の前
(ひをけすや  こころ がけなす  つきのまえ)
 
の中で、季語「月」は、貧困と未来への不安の中で、「崖をなす心」を照らす、一筋の希望を象徴している。
この使い方が、「ホトトギス」の「季題諷詠」(季題・季語そのものを詠むこと)と明らかに違う。
 
ただ、この手法は人間探求派が最初…、というわけではない。
松尾芭蕉の、
 
この秋は何で年寄る雲に鳥
(このあきは  なんでとしよる  くもにとり)
 
なども同じである。
秋になり、がっくりと体力が落ち、老いを感じる芭蕉…。
「雲に鳥」、つまり、「雲の中に消えてゆく鳥」は、旅に行き、なおも旅に生きようとする芭蕉の旅へのあこがれ、漂泊する孤独の心を象徴している。
この手法を積極的に、前面に出し、なおかつ現代版として使ったのが、人間探求派なのだ。
私はそう考えている。