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福島・白河の関の近くに、

庄司戻しの桜(しょうじもどしのさくら)

がある。
河合曽良の『随行日記』に、

暮前より小雨降ル。
(籏ノ宿ノハヅレ二庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。
判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。
土中古土器有。寄妙二拝。)

【意訳】
暮れ前から雨が降り始める。
(籏宿のはずれに「(佐藤)庄司もどし」という桜木が畑の中にある。
挙兵した源頼朝のもとへ馳せ参じる源判官義経を見送ったあと、酒盛りをした跡である。
のぞくと土の中に「かわらけ」があった。奇妙なことがあるものだと拝んだ。)

とある。

佐藤庄司(さとう・しょうじ)とは佐藤基治(さとう・もとはる)のことである。
「庄司」というのは「荘官」のことで、「荘園」の管理者である。
簡単に説明すると、自分たちの手で田畑を切り開いたのだが、当時、いろいろと朝廷や権力者から難癖をつけられたり、外敵によって奪われたり、と不安定だった。
そこで貴族や有力寺社に土地を寄進してしまう。
そうすると、一定の「上納」をすれば、そこの実質的所有者になれた。
当時、そうするしか土地を保てなかったのである。
その不満が鎌倉幕府が生まれる大きな原因となる。
だから、簡単に言えば地方豪族、つまり「武士」の原型である。

源義経が奥羽藤原氏の元で庇護されていた時、兄の源頼朝が伊豆で挙兵した。
頼朝の軍へはせ参じようとした時、佐藤庄司は二人の息子を義経に随行させた、それが継信・忠信兄弟である。
1180年(治承8年)のことである。
その時、庄司はここまで見送りに来て、桜の杖を地に刺し、

汝ら(兄弟のこと)忠義の士たらば、この桜の杖が生きるであろう。

と言ったという。
実際(かどうかわからないが…)この桜の杖は成長し、桜の木となった。
兄弟も大活躍し、最後は二人とも義経のために死んだ。

その桜が写真である。
江戸時代に野火で焼けてしまったそうだが、そこからまた桜が自然と生えたのだそうである。

ここはほとんど…というか誰も訪れる人はいない。
『随行日記』には、義経たちを見送ったあと、ここで酒盛りをした、とある。
芭蕉一行が地中をのぞくと、「かわらけ」(酒を飲む器だろう。)があったという。
芭蕉たちは、きっと「佐藤庄司」のかわらけだと思っているようである。
それはどうだかわからないが、実に不思議な記述である。

「おくのほそ道」の本文には登場しないが、実に気分のいいところである。