
(栃木県大田原市 犬追物跡)
一日(ひとひ)郊外に逍遥(しょうよう)して、
犬追物の跡を一見(いっけん)し、
那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳を訪ふ。
―「おくのほそ道」黒羽―
「犬追物」というのは聞いたことがあるような気もするし、ないような気もする。
鎌倉時代の武芸鍛錬のひとつだった、と思う。
調べるとやはりそうだった。
しかもここが「犬追物発祥の地」であるらしい。
浄法寺図書に誘われて、芭蕉はここに来たそうだから、図書がここを誇りとしていたことがわかる。
芭蕉はこのあと「玉藻の前の古墳」を訪ねているが「玉藻の前」とは「九尾の狐」のことである。
簡潔に書くが、中国で絶世の美女に化け、国を混乱に陥れた「九尾の狐」が日本にやってきて、今度は時の帝、鳥羽院をたぶらかした。
しかし、正体を見破られ、都からここまで逃げて最後はここで討たれた。
それが「玉藻の前の古墳」である。
犬追物は、ここで、その九尾の狐を倒すため、三浦介(みうらのすけ)、上総介(かずさのすけ)たちが騎馬弓術の鍛錬をしたのが発祥とされている。
馬場に犬を放ち、それに矢を放ったのである。
狐退治の予備演習である。
少し犬がかわいそうな気もするが、鏑矢のような矢を使って、犬に致命傷を与えないようにしていた。
ただ、この頃はどうだかわからない。
というか、この伝説事態、ホントかどうかは知らない。
なんと八万の軍を動員した、という。

今は一角が森として残っているばかりで、ほとんどが田んぼとなっている。
その森も柵がされていて入ることはできない。
真ん中をきれいに農道というか、道路が走っていて、それなりに車が走っている。
ところで「玉藻の前」を退治したのは三浦介と上総介だと書いたが、三浦介とは「三浦義明」(みうら・よしあき)で、上総介は上総広常(かずさ・ひろつね)のことである。
のちに源頼朝挙兵の時、伊豆北条氏とともに…、いや、それ以上に平家打倒の原動力となった武者たちである。
三浦義明は私の住んでいる横須賀市、三浦市一帯を治めていた。
私はこの義明が好きである。
鎌倉時代のもっとも「鎌倉武士」らしい鎌倉武士だった。
そのことは以前に書いた。
三浦半島、横須賀 三浦大介義明のこと
九尾の狐の伝説は創作としか思えず、したがって三浦義明が退治したというのも、のちの創作だろう。
ただ、それだけ三浦義明は武勇の誉れが高かったのである。
伝承されていくうち、九尾の狐を討ち取るのは三浦義明こそふさわしい…と当時の人が思ったのに違いない。
この伝説は源平合戦前夜のことであり、貴族の時代が終わり、武士の時代の到来を告げる象徴的な伝説でもある。
このあとに芭蕉の好きな源義経が台頭してくる。
それは芭蕉の詩心を大いに刺激したのではないか。