
(奈良県桜井市)
編集者として恥ずかしいことだが、最近知ったことがある。
「崇」と「祟」という字の違いである。
「崇」は「スウ」で「崇める」(あがめる)と読む。
「祟」は「スイ」で「祟る」(たたる)と読む。
字面を大きくすると下記のようになる。
崇 祟
「あがめる」は、神や人物を敬い奉ること。
「たたる」は、神や怨霊などが災いをもたらすことである。
このある意味、真逆の意味が、なぜ同じ字なのか、と不思議だった…が、これは私の無知、勘違いだった。
ここで気になるのが歴代天皇の名である。
「崇」と「祟」のどちらかを使った名が、歴代天皇に数人いるのだ。
第10代 崇神天皇
第32代 崇峻天皇
第75代 崇徳天皇
北朝3代 崇光天皇
125代のうち、4人いた。
ただ、調べてみたが、どれも「崇」のようだ。
考えてみれば天皇の名に「祟る」などという不吉な字を使うわけがなかった。
ただ、例えば、崇神天皇は、王朝交代説がささやかれている天皇だし、崇峻天皇は、当時の権力者・蘇我氏に暗殺された、という説もある。
崇光天皇のことはよくわからないが、どの天皇もちょっといわくのある天皇が多い。
とりわけ、第75代崇徳天皇は「異様」である。
天皇というよりは「崇徳上皇」として知られている。
この字が「崇」なのか「祟」なのかが気になったのである。
崇徳上皇は、菅原道真と並ぶ、日本史上最大の怨霊である。
崇徳上皇が生きた時代は平安時代末期、源平の武家勢力が抬頭した時代である。
鳥羽上皇の第一皇子であったが、鳥羽上皇に疎んじられ、全く、天皇、上皇としての権力を与えられなかった。
崇徳上皇は、鳥羽上皇の父・白河上皇が、鳥羽上皇の妻・藤原彰子との「密通」によって生まれた子、という話がある。
それを鳥羽上皇が信じていたのかどうかはわからないが、とにかく、鳥羽上皇に疎んじられた。
鳥羽上皇没後、異母弟の後白河天皇と権力闘争(保元の乱)を繰り広げたが、敗れ、讃岐に流された。
天皇、上皇が配流されたというのは400年ぶりのことだという。
出生のことに関しては、子供に罪はない。
「なぜ、自分が・・」ここまで疎まれなければならないのか、という悲しみがあっただろう。
崇徳上皇はおのれの境遇を悲しみながらも、保元の乱の戦没者の供養に経文を書き、それを京都の寺に納めてもらうよう、朝廷に懇願したが、後白河天皇に拒否され、経文をそっくりそのまま送り返された。崇徳上皇は絶望し激怒し、舌を噛み切って、
日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん
この経(経文)を魔道に回向す
と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、生きながら天狗になったとされている。
「日本国の大魔王になり、天皇を庶民にし、庶民を天皇にする」
「この経文を魔道にささげる」
と言っているのである。
以後、都では皇族や貴族の変死、天変地異が相次ぎ、崇徳上皇は「怨霊」として恐れられた。
後白河天皇は、のちに平清盛や源頼朝と壮絶な「権力闘争」を行い、堂々と渡り合った「強者」である。
その後白河天皇もさすがに恐れをなし、「讃岐院」という名だった崇徳上皇に「崇徳」という最大限の名を送ったのである。
「天皇を庶民にし、庶民を天皇にする」
というのは実現されていないように見えるが、見方によっては実現されている。
それは、これまで下僕のようにさげすんできた武家が天下を取ったことである。
のちに平清盛の娘が、後白河天皇に嫁ぎ、平家の血を引いた天皇(高倉天皇、安徳天皇)が出現したことであり、源頼朝が幕府を開き、政治を、天皇にとってかわった、というのが、それに当たる。
面白い(?)話がある。
明治天皇が即位した時、天皇は、まず、崇徳上皇の眠る讃岐へ勅使を送り、崇徳上皇の霊を京都に移送し、供養した、という。
これは実話であるし、明治という近代になって行ったことである。
代々の天皇家がいかに崇徳上皇の祟りをおそれていたかがわかるだろう。
僕は上記のことから崇徳という字は「祟」(たたり)の字だと思っていたが、実際は「崇」(あがめる)だったわけである。
当時は「祟り」というものを異常に恐れた。
菅原道真を「天神様」として祀ったのも、祟りを畏れたためである。
崇徳上皇の場合も、やはり「祟り」を恐れて、「崇徳」、つまり「崇めたてまつる、徳のあった天皇」という「最上級」の称号を送った、ということであろう。
つまり、「祟り」をおそれて「崇める」のである。
なんだかちょっとややこしいが、そう考えると「崇」と「祟」はどこか、底辺で、つながっているようにも思える。