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(東京都台東区 浅草寺)
 
 鈴木鷹夫先生ご逝去
藤棚に白藤かかる別れかな     誠司
 
白玉や波郷遺弟子のひとり逝く
 
帰らんとしてまた戻るみやこどり
 
江戸つ子に花あり鈴木鷹夫あり
 
ひと亡くて三社祭りの笛太鼓
 
風となりて三社祭に戻られよ
 
 
今日は「門」主宰・鈴木鷹夫先生の告別式に行ってきました。
なんだか淋しかったですね。
 
僕はずいぶん可愛がっていただきました。
私の第一句集は『ブリッジ』というのですが、その句集を誉めてくださって、私のことを「ブリッジ君」「ブリッジ君」と呼んでいました。
なにかの会で、ご挨拶すると、
 
おーブリッジ君か。
 
となごやかに言ってくれました。
 
先生は昭和3年の生まれ。
石田波郷に師事し、波郷没後は能村登四郎に師事。
「門」を創刊し、句集『千年』で俳人協会賞を受賞されています。
 
なにしろ生粋の江戸っ子。
浅草に生まれ、日本橋に育つ、というこれ以上ないほどの江戸っ子でした。
実は「江戸っ子」にもランクがあるのです。
私のような「墨田区」や「荒川区」は場末のようなもので、江戸っ子の最上ランクは芝、神田、日本橋そして浅草です。
先生の前で、「自分も江戸っ子です!」などとはとても言えません。
一度、「あなたも江戸っ子なんでしょ?」と先生に言われ、
 
いえいえ、先生と較べたら、私なんぞ場末の江戸っ子です。
 
と慌てて言ったことがあります。
ついつい、「なんぞ」なんていう、昔の言葉を使ってしまい、あとで一人で笑ってしまった記憶があります。
本当は「場末の江戸っ子でございやす」と言いそうになったのです(笑)。
そういう口調になってしまうほど、いかにも江戸っ子という感じの人でした。
 
面白い話があります。
鷹夫先生が、「門」を創刊する時、師の能村登四郎先生に呼ばれ、
 
これから、私とあなたのことをいろいろな人がいろいろ言うでしょう。
でも、あなたと私は、いつまでもいい関係であるよう、努力しましょうね。
 
と言われたそうです。
「沖」同人であった鷹夫先生が、新しい結社を作るのだから、噂好きの俳壇では、いいかげんな噂が飛び交うだろう。
そのことを登四郎は言っているのです。
そして、こうも言ったそうです。
 
あなたは様子がいいから、女には気をつけなさいよ。
 
ある俳句の先生の話では、鷹夫先生は、若いころ、往年の二枚目俳優・田宮次郎そっくりだったそうです。
ただ、鷹夫先生は、その当時は、あとのほうの助言の「女には気をつけろ」ということしか耳に入らなかったのだ、と言っていました。
そして、年を取って、登四郎先生の前の方の「いい関係でいましょう」という言葉がいかにありがたく、身に染みる言葉だったか、と話されていました。
 
芭蕉を愛し、其角を愛し、江戸風の俳句を愛した先生でした。
もうこういう江戸風俳句は生まれてこないでしょうね。
もはや、現代に、本当の江戸っ子なんぞいやしないのですから・・・。
 
先生の柩には、大好きだった、古今亭志ん生の落語「火焔太鼓」のCDが入っていました。
あ~やっぱり志ん生なんだな~、と思いました。
桂文楽でも三遊亭円生でもなく、三遊亭金馬でもなく、やはり、志ん生なのです。
「火焔太鼓」は古今亭志ん生、最高の演目。
あの世でゆっくりと聞いてほしいものです。
せめて今年の、浅草の「三社祭」を見てから、逝かれてほしかったです。
 
帯巻くとからだまはしぬ祭笛      鷹夫