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(奈良・山の辺の道)
 
湯煙に顔なでられて大根干す      誠司
 
風と日のすべりだしたる薄紅葉
 
木の実降る風の始まるごとくかな
 
冬天へつらなる坂や湯のけむり
 
木の実ころがり万葉の東歌 
 
吉野川流域に「国栖」(くず)という地があり、新年の季語に「国栖奏」(くずそう)というのがある。
 
陰暦1月14日に奈良県吉野町国栖の浄御原神社で行われる歌舞。
祭神である天武天皇の御霊を慰めるために行われるもの。
 
だ、そうだ。
 
岩襖(いわぶすま)国栖の翁の舞ひはじむ    森田 峠
 
国栖奏の笛涸溪(かれだに)にひびきけり    塩川雄三
 
「国栖奏」は、文字通り、国栖の人々が奏でる舞曲である。
この国栖人(くずびと)というのが、いまいちよくわからなかったのだが、最近、ようやくわかってきた。
古代より奈良に住んでいる部族なのだが、九州より”東征”してきた神武天皇の子孫ではない。
神武天皇が大和盆地に入り、やがて、大和朝廷によって壮麗な都が建設される頃になっても、吉野川の断崖に住み、「穴ぐら」の中で原始的な生活をしていた先住部族であるらしい。
文献などには異様な人種として紹介されていて、体が小さく、頭が大きく、自然と溶け合うことを、部族の哲学としていた。
尾っぽが生えていた、などという記録もある。
天孫族の子孫の、恐れと軽侮をこめた偏見だろう。
穴を掘り、入り口に庇を作り、庇を蕗の葉で覆って生活していた、とある。
きっと縄文民族の一つだったのだろう。
 
大和盆地は、古代出雲王朝の支配する地であった、という。
神武天皇は一度、大和に入ろうして撃退されているのだ。
撃退したのは、すでに先に大和に降臨していた天孫族のニギハヤヒノミコトと、地元の王であったナガスネヒコであった。
この「ニギハヤヒノミコト」は出雲王朝の大和の長だった、という説があり、ナガスネヒコは国栖の部族の長であった、という。(もちろん真偽のほどはわからない)
それがやがて天孫族に臣従するようになり、天皇に奏上した歌舞が、国栖奏の始まりである、という。
 
古代大和の地は、出雲民族と国栖人の共存する地であったが、そこに武力に長けた天孫族がやってきた、というわけである。
実際、奈良の人々は、神武天皇を祀る橿原神宮より、出雲神である大物主命を祀る三輪神社のほうを信奉している。
「神武さんより大物主命さんの方が先や」
と言う。
 
冷静に考えてみると、大和にはそれぞれの部族の匂いがプンプンする。
三輪山周辺は古代出雲民族の地だし、飛鳥には渡来人の匂いがする。
吉野川流域は国栖人の地である。
 
国栖は葛(くず)とも書く。
それは「葛城」の字にも通じる。
葛城山にも国栖人の遺跡が発見されている。
 
「葛城」とは「国栖人の地」あるいは「国栖人の国」という意味があるのかもしれない。