わが死後を書けばかならず春怒濤 寺山修司(てらやま・しゅうじ)
(わがしごを かけば かならず はるどとう)
むずかしいが、どこか惹かれる一句だ。
なにより、春怒濤の迫力が感じられる。
「死後」と、「春怒涛」の生命力の対比がいいのだろう。
自分の死後のことを書いている、とはどういうことか。
単純に考えれば、生きている自分が、自分の死後のことを書いている、ということだ。
それは自分が死んだあとの、この世のことであろうか。
それとも、死んだ自分のことを書いている、ということか。
ただ、この句をじっと眺めていると、私にはもう一つの考えが浮かんできた。
自分は死んでも、書いているということ。
死んでも自分の魂は悠々と駆けていて、詩歌、あるいは物語を書き続けていること。
「春怒濤」とは、その魂の象徴なのではないか。
自分の魂が詩歌を書けば、必ず春怒濤がわきおこる。
なぜか?
それは自分がホンモノの詩人だから・・・。
寺山はきっとそう言いたかったのではないか。
「かならず」が、その意志を示しているように思う。