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『新撰21』が邑書林より刊行された。
帯に「発見! 若き俳人たち」とあり、U-40世代21人100句のアンソロジー。
これから活躍する、あるいは現在活躍している若き俳人達の作品が収録されている。

私も「ホトトギス」「山茶花」所属の中本真人君の小論執筆として参加させていただいた。
中本君とは面識がなく、21人の中では一番伝統派の俳人なので、なぜ私が小論執筆者に指名されたのか?
そんなに私は伝統派と思われているのかな~、とおかしく思った。
(まあ、たしかに伝統派のつもりですけど…(笑))

収録されている合評座談会で、対馬康子さんが「かなり偏った人選」と述べているが、21人のメンバーを見ると、私もそう思った。
人選を高山れおなさんが中心となり、編集委員に高山れおなさん、筑紫磐井さんという3人中2人が「豈」のメンバー。
選ばれた21人や小論執筆者に「豈」のメンバーがずいぶん含まれているので、もうちょっと懐の深いところを見せてもらいたかった。
まあ、でも、確かによその出版社ではできないラインナップなので、そのことには敬意を表したい。

さて、それはともかく、私は怒っている。
合評座談会での筑紫磐井氏の村上鞆彦君への発言についてである。
抜粋してみよう。
磐井氏は、村上作品を評価しながらも、下記のように発言している。

筑紫磐井 (中略)他人を有季定型でなきゃ俳句じゃないって閉ざしちゃうのはね。
高山 それってどこで? 「豈」への寄稿で?
筑紫 そこらじゅうで書いてますよ。そこらじゅうで書いていまして、余計なお世話です。自分は自分の世界のなかで詠んでろと。なんか、われわれより高飛車じゃない。我々は有季定型まで含めてね、いいものはいいと言っているつもりだけど。
小澤實 高飛車なのも大事じゃないですか?みんな物分りがよくなりすぎちゃってるんで。
筑紫 高山れおなも若い頃ナマイキだったけど、高飛車ではなかった。


これは、以前、村上君が角川の「俳句」のアンケートで、自分は季語があってこその俳句だと思っている。それを無視してもいいという人は、俳句という名称に拘らず、別の名称や分野で発展させるべきではないかと自分は思う、という主旨の発言に対して、非難しているのである。

無季容認の筑紫氏がこの発言を好まない気持もわかるし、同じように好まない人もいるだろう。
だが、筑紫氏はあきらかに誤った情報を世間に喧伝している。
村上氏は、有季定型でなければ俳句と認めない、ということを「そこらじゅうで書いている」と書いているが、「俳句」での一回だけである。

それを「そこらじゅうで書いている」というのは明らかに間違いで、訂正、謝罪すべきである。
しかも、村上君は、中岡毅雄氏がおこなった「俳句に季語は必要か」という質問に対して、自分なりの考えを述べただけで、積極的にそのことを世間に主張したわけではない。
自分はこう思って俳句を作っている、と述べただけだ。
それをあたかもあちらこちらで無季俳句の悪口を言い散らしているかのような発言をしている。
これは明らかに、意図的に捻じ曲げた悪意であり、こういうことを平気で発言しているのが無神経である。
むしろ、そこらじゅうに村上君の悪口を書きちらしているのは磐井氏だ。
(私の記憶ではすでにこれで三回目である)
高飛車なのはむしろ彼のほうであろう。

自分の仲間である「豈」のメンバーばかり推賞し、自分と考えの違う若手を、誤った情報を広めて潰そうとしている。
それでいて、

我々は有季定型まで含めて、いいものはいいと言っている。

と発言しているのは嘘としか思えない。

磐井氏は第一線で活躍する俳人であり、論客である。
村上君はいい作家である。
間違いなく今後の俳句を担っていける逸材である。
そのような人をこのような誤った情報で非難するのは、活字の暴力といっていい。
一度活字になったものは、二度と消せないのである。
活字の暴力は、時に、本当の暴力よりも恐ろしいのだ。

私はそういった、活字の暴力を振りかざし俳句や人の人生を汚した俳人や編集者たちを多く見て来た。
筑紫氏はそういう傲慢な俳人になってしまわないで欲しい、と思う。