春潮に巌は浮沈を愉しめり   上田五千石(うえだ・ごせんごく)

(しゅんちょうに いわはふちんを たのしめり)

上田五千石は俳句という有季定型の器の中で、最大限の詩的才能を発揮した作家であろう。

冬銀河青春容赦なく流れ
寒林の透きゐて愛は切なきまで
もがり笛風の又三郎やあーい
秋の雲立志伝みな家を捨つ
万緑や死は一弾を以つて足る


多くの俳人が詩的表現をこころざすあまり、季語や定型を無視し、饒舌な散文詩へ傾倒してゆく中で、彼は詩的なメッセージを十分に発揮しつつ、しっかりとした有季定型詩を残した。

五千石俳句、特に初期作品の真骨頂は、なんと言っても俳句表現における”レトリック”にある。

青胡桃しなのの空のかたさかな
秋の蛇去れり一行詩のごとく


や掲句などは「視点や発想の逆転」という特徴が見られる。

信濃の山国の空はたしかに都会の空と較べると、硬さを感じるであろうが、「胡桃」という硬い実からの発想の作であることがうかがえる。
それを「空が硬い」と表現した逆転の発想。
また秋蛇の句は、蛇という一本の長い生物から「一行詩」への着眼、転換がうかがえる。

その傾倒の最高峰の作が、

渡り鳥みるみるわれの小さくなり

である。
この句は、本当はみるみる小さくなってゆくのは渡り鳥なのであるが、視点を自分から渡り鳥へ転換し、みるみる小さくなってゆくであろう「われ」を描いており、五千石の初期の代表作であろう。

この手法は、文芸評論家の山本健吉などに批判も受け、のちに、

早蕨や若狭を出でぬ仏たち
みづうみに雨が降るなり洗ひ鯉


など平明な境地を開いた。

しかし、やはり五千石俳句の魅力は初期にあり、俳句の本道から多少ずれているとしても、後世に残した俳句の可能性は大きい。

掲句、冬の厳しかった海も春になり、心なしかゆったりと波がただよっている。
磯から突き出た巌が波をかぶってはその水を落としている。

その風景を巌が浮き沈みを楽しんでいると表現する。
この大胆な手法が鮮やかであり、なんといっても「浮沈」という表現が素晴しい。

あくまで、波が高くなったり低くなったりしているのだが、それを巌が「浮沈」しており、さらにそれを巌が「楽しんでいる」と表現した。
訪れた春の喜びを一七音の俳句の器の中で精一杯に表現している。